【文明論】第10回「活動絵画」<後編> 山賀博之(ガイナックス元代表取締役社長)
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姫の父は共産主義者として殺された。彼女はその事件から、ある家を憎んできた。街の政治権力さえも支配しつつある渡来系の富豪。その家の次男は最新の戦闘機を手に入れ、人を殺す決闘を楽しんでいる。姫は本物の騎士の主人公を利用して合法的に次男を殺すことを企てた。
ともあれ、『蒼きウル』は娯楽活劇としてはスカイ・アクション映画だ。決闘シーンは3つある。冒頭、いきなりの空戦で騎士の仕事を紹介する。そして、街へやって来てこの次男と。最後はラスボスたる長男との死闘。そう、死の物語。これぞグラディエーターの出番である。
このシーンへ入った途端、舞台上の空は闘技場に変わり、観客は生贄の血を劇中の人物ばかりか、裏方の我々制作者にまで要求してくる。実写で撮ろうが手で描こうがCGや生成AIを使おうが、主人公と我々にとって、ここは正念場であり、魂のエネルギーの最大放出を行う。
そもそも、アニメという技法で飛行物体を表現すること自体が至難の業だ。そこにあるのは哲学的な問題、飛ぶとは何なのか? 飛ぶ夢はすべてが落ちるという現実、即ち重力の存在が観客との間に共有されてこそ成り立つものなのだ。この問題は部分に見えて全体を覆っている。
特に、白い紙に線を引いたところから作るアニメ映画の舞台には重力が無い。つまりは現実が無い。観客の生きているリアルな世界をここに閉じ込めようとしても底が抜けている状態だ。ただ引き写しただけの現実は宙を漂うのみ。実写映画が重力を克服するより確実に難しい。
それがすでに起きた過去の記録で終わらず、未来の舞台のためのライブ感発生装置となるには、生成した疑似現実が記録し得る現実を越えなくてはならない。アニメ映画は過去となった現実に見え隠れする心の動きを積み上げて作るもので、記録の活用はその案内役に限られる。
だから、飛んだことの細かい知識よりは、実際に落ちた体験の方が大きな材料になる。これまで生きてきた日常から無数の材料を集めて、観客も我々もまだ体験したことのない、空を飛びながらの決闘といったライブを開催できれば、架空の祭壇に架空の心臓は必ず載るはずだ。
そんなシリアスな舞台なのだとしたら、現れる騎士は決して二枚目じゃない。ケチだがお人好し。猜疑心強めだが間抜け。ざっくり分けて駄目な人間。観客は最初に彼の凄いところを見ちゃってるから疑わないが、でなければドン・キホーテのごとき偽の騎士と思われるだろう。
愛機は軍の放出品。正式には汎用機であり、小型のⅤТОLに中古の機関銃を積んだもの。目立つよう真紅に塗装した。操縦盤には時計さえ無く、各種計器を装着するための穴だけが並んでいる。航法等の情報はテープで貼りつけた液晶に表示。生活感満載のジェット戦闘機だ。
三十二才は現役の騎士として高齢組だが、それは彼の能力の高さも示している。ほとんどの騎士は若いうちに死亡するし、運よく生き延びても命惜しさに二十代で引退する。あまり長く続けられる仕事ではない。一般には知られていないものの、彼は博徒の業界では伝説だった。
知らぬ土地へ来て知らぬ姫の依頼を受たのは、裏社会で生きてきた騎士の方に言わせれば偶然でしかない。それも悪い偶然だ。仕組まれた次男との決闘は警察の介入で強制終了。戦闘機は壊れて修理が必要となり、彼は翼をもがれた天使、帰れなくなったE.T.として街に留まる。
これで話は恋愛の物語へ進むわけだ。彼は騎士というアイデンティティを放棄すると、姫の中に見た平等の夢にほだされることで最後の決闘へ向かう。何百年間も擦られてきた類型の物語。恥ずかしげも無くこれをやろうと思うのも、この野暮ったさがモデルに準拠するからだ。
鈍重でしかも先の見える話は映画のスタイリッシュさを阻害する。昔のディズニーのような王道のお伽噺は別にして、とりわけ日本のアニメ業界内ではそのように思われてきた。制作のシステムが絵コンテ有りきに偏重している(私はそう考えている)のもそこに起因している。
総じて、アニメキャラの喜怒哀楽の感情変化は(もし記号的でなかったとしても)他ジャンルに比べて高速である。声優の技術を含め、この方法で観客に何かを訴えるスタイルが確立されたことは認めるが、これがアニメの映画表現の領域を狭める原因となっているのは明白だ。
それは一つ一つのシーンを「お約束」で済ますことで引き換えている展開の軽妙さなのではないか。10分から20分単位のリズムはむしろ緩やかな方が、一瞬の芝居空間が作りやすく見える。この長と短の入れ替えこそが新しいアニメ映画の演出スタイルだと私は考えている。
言うまでもなく世の中の芸能は多種多様。統一したモデルで括れるものではない。しかし、その星の数ほどある作品たちの中で『蒼きウル』というアニメ映画が特別な輝きを放つとすれば、その理由は誰か一人の強烈な個性ではなく、我々の文明そのものに求めた普遍性にある。
上昇と平等の間で生きている感触は、ジェンダー、世代、国を超えて誰にでも通じる主題でありながら、明確な言葉にしてそこへ手を伸ばした芸能者は少ないように思う。おそらく、これを真面目に実践することによって作家という特権は否定され、個の利益も消されるからだ。
しかし考えてみたらいい。少なくとも芸能において作家個人の才能の貴さなど出版という商売から発生した幽霊みたいなものだ。21世紀もいよいよ中盤に差し掛かろうとしている今、それに固執するのは、社会でこのような業務を担当している者として良い姿勢とは思えない。
では、これからの芸能を「拙い子が懸命に励む姿」と規定した私は、どのような姿勢をもってこの大事業に臨むべきだろうか? 上昇を目指して平等でありながら、上昇せず平等を求めない創作のシステム。当然、このふわふわと浮遊する理想にも到達点を見出すことはできない。
歴史の教科書にヒントを見つけた。8世紀、聖武天皇から発せられた奈良の大仏建立の事業を開始するにあたっての詔に、「もし、一枝の草や一握りの土でも持ちよって造像に協力を願い出る者があればこれを受け入れよ」という文がある。これって意外と未来風じゃないかと。
【過去の連載】
【文明論】第1回「駅裏」