【第10回-①】「関川を遡る古代朝鮮文化の足跡をたどる」くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

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初掲載:2024年5月13日

前回(第9回)はこちら→ 9-1 信濃川を遡る古代朝鮮文化の足跡をたどる

10-1.関川を遡る古代朝鮮文化の足跡をたどる

写真① 神社の境内に遺る三国時代の様式をもつ亀石

写真② 神社の近隣に遺る猿石

妙高山麓に関山神社があります。私は、1990年代に幾度か関山神社とその周辺に出かけました。当時私は、山間部の関山神社から平野部の東頸城郡浦川原村法定寺付近までに広く永く存在してきた一つの信仰文化圏をフィールド調査していたのです。

そのわけは、関山神社石仏群や法定寺石仏群に、日本が古事記・日本書紀に記される以前のとても古い時代の信仰文化が垣間見られるので、それを探究したかったのです。

それは例えば、神社の境内に遺る三国時代の様式をもつ亀石(写真①)、神社の近隣に遺る猿石(写真②)などに偲ばれます。さらには、次のような出来事に示されます。

写真③(上越市教育委員会提供)

1994年の秋、私は上越市の子安遺跡(平安前半9世紀中頃の層)から海獣葡萄鏡が出土したとの報らせを調査仲間の故吉川繁氏から受け、さっそく遺構などを調査見学に出かけました(写真③、上越市教育委員会提供)。

葡萄唐草の上に禽獣を重ねた文様で知られるこの鏡は、定説によれば西域からシルクロード、遣唐船を介して日本にもたらされたものです。正倉院や香取神宮には現存し、遺跡出土では高松塚古墳の例があります。そのほか国内での複製品もあります。調査に同行してくださった上越市の仏教美術史家・郷土史家平野団三翁は、そのあたりの歴史文化的背景について、私に縷々ご説明くださいました。

この出来事で興味がそそられますのは、出土した場所が越(高志)だという点です。ヤチホコ(オホクニヌシ)の妻訪い相手ヌナカワヒメで有名な越は、一説によれば、けっきょく出雲に滅ぼされ、出雲は大和に滅ぼされました。しかし越は越です。

大和と耶馬台の区別をめぐる論争いわゆる耶馬台国論争を棚上げしてみたところで、越はまちがいなく倭=ヤマトではありません。越には、紀元前からそれ独自の文化が生成していました。

倭でない文化圏に倭の都で珍重される鏡が出土したというのは、いったいどうしたことでしょうか。くだんの鏡は、それが出土した地層の堆積年代からみて、出雲が倭に征服されたあと科野(しなの)を経て越へ運ばれたとも考えられましょう。しかし、その年代の地層に埋もれるには、鏡がその年代かそれより以前に越に存在していなければなりません。また、北九州や山陰のみならず北陸から北の日本海沿岸(古くはその一帯全域を越ないし古志・高志と称していました)には、早くから民間ルートを通じて大陸の諸文化が伝えられていました。

例えば道教ないしそれに起因する民間信仰は、飛鳥の欽明天皇時代における仏教公伝(538年、ないし552年)よりもずっと早くから越の一帯に浸透しているのです。また、飛鳥時代には、越のことを「蝦夷」とも称しておりましたが、当時「蝦夷」とは倭=朝廷に服従しない蛮族の意味がありました。実情がわからないので脅威と畏怖の対象でした。何を信仰しているのか、覚束なかったのでしょう。

ですから先程述べました西域起源の海獣葡萄鏡などは、越にいた土着の有力者が独自のルートで入手したとも考えられるのです。倭=ヤマトの国の有力者が越に派遣されるとき携えてきた、ないし都から取り寄せたと考えるよりも、飛鳥時代にすでに越には倭が一目をおくべき土着の権力者あるいは渡来系の勢力が存在したと考えることもできるのです。

前回(9-3)「プレ邪馬台国のごとき五十公野(いじみの、いぎみの)」で紹介した「ゐぎみ」はその傍証となりましょう(☆)。その推測について文献上の傍証になるのは、日本書紀の持統三年(689年)の箇所です。

そこを読みますと、持統天皇は越の蝦夷と南九州の隼人に対して仏教による教化政策をとったことがわかります。つまり、その頃の越に倭の勢力は未だ十分には浸透していなかったということです。さらに記述を読み進めますと、蝦夷・隼人のうち後者に対しては筑紫太宰の河内王に命じて公伝仏教の僧を派遣して教化政策を推進しましたが、越の蝦夷に対しては僧の派遣はしませんでした。すでに蝦夷には在地の僧である道信ほかがいたので、仏像一体と仏具を送るにとどめています。

隼人と蝦夷とへの対応の相違は、7世紀後半において越には自前で僧を育成しうるほどに民間仏教・民間信仰が広く深く浸透していたことを物語っているのです。

(☆)前回(9-3)の原稿をいっそう詳しく展開した以下の拙稿を参照:「プレ邪馬台国のごとき越の五十公野(ゐじみの、ゐぎみの)」、『NPO法人頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』ディスカッションペーパー、Vol.9/No.08 2024. 04.27
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kfa/9/8/9_1/_article/-char/ja

(第10回ー②に続く)

石塚正英

1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。

 

【連載コラム くびき野の文化フィールドを歩む】
#9-1. 信濃川を遡る古代朝鮮文化の足跡をたどる

#8-1. 前曳きオガが高麗時代の半島にあった!

#7-1. 胸張る狛犬獅子像―朝鮮半島とくびき野の交差点

#6-1. 小野小町の死生観

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