【第10回-③】「諏訪大社の起原とからむ関川遡上文化」くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)
前回(第10回ー②)はこちら→ 関川下流域に前方後円墳があった!
10-3.諏訪大社の起原とからむ関川遡上文化
ここからは古代日韓文化交流をはなれ、諏訪信仰の関川遡上説を解説します。長野市に在住し南方の信越県境から頸城野へと流れる関川に注目する諏訪信仰研究者の福澤健太郎氏は、糸魚川でつくられたヒスイ製品の交易ルートに関連させて、著作『諏訪大社の起源を探る―遥かなる出雲の記憶―』(自家出版、2022年)で以下のように主張しています。
「完成した玉は、日本海沿岸はもちろんだが、主に中部高地へと運ばれた。興味深いことに、吹上遺跡で使用された土器(吹上I期)は、8割が北陸の小松式土器で、2割が長野県北部を中心に分布する栗林I式土器で構成されていた。/このことは、吹上遺跡では、北陸地方の人間と中部高地の人間が、共存していたことを意味する。吹上遺跡は、日本海から中部高地に入る「玉の道」の玄関口にあるため、北陸(コシ)と中部高地(シナノ)、双方の交流地点だったのである。/吹上で作製された玉の分布、また出土した土器の様子を考えた時、柳沢や根塚の金属器が「北陸から上越そして関川を遡るルート」を通った可能性が高いと私は思う」。
この議論を読んで福澤氏にいたく感心した私は、2022年8月、自ら主宰するNPO法人頸城野郷土資料室の文化講座で、「諏訪大社信仰関川遡上説の紹介」を講じました。その概要(福澤著作の紹介)を以下に記します。
善光寺の本尊は、現在、絶対秘仏とされ、見ることはできません。どのような姿なのか分からない以上、何も言うことはできない。しかし、北シナノやその周辺の最古級の仏像を参考にして、起源を考えることはできるはずです。例えば、大町市の南にある松川村には、観松院に菩薩半跏像があります。この仏像は、7世紀前半のもので、朝鮮三国時代の特徴が認められます。
また、長野市の山千寺地区には、観音菩薩立像があり、7世紀後半の像であると考えられています。さらに、長野市から新潟県上越市に抜ける北国街道沿いには、関山神社があります。この神社は、もとは関山権現社と呼ばれ、その本尊である聖観音菩薩像は、飛鳥時代の6世紀後半から7世紀初頭にかけて、百済から伝来したとされています。
これらの仏像は、いずれも飛鳥から白鳳期にかけてのもので、そのルートは朝鮮半島から北陸経由で直接伝えられた可能性が大きい。となれば、善光寺の本尊も、飛鳥から白鳳期にかけて、北陸ルートで伝えられたと考えられはしないでしょうか。
福澤氏がここで強調したいのは、日本海を船で横断するルートがかつては存在したという点です。『古事記』でタケミナカタノカミは、イヅモからシナノへ逃げ込んだと書かれている。『日本書紀』に登場するシナノ氏は、シナノ出身の日系百済人であり、また、朝鮮半島では糸魚川で採取されたヒスイが見つかっている。北シナノにあれほど積石塚が集中するのも、コシを通じて多くの渡来人が流入したためだろう。
川崎保氏は、こうした海を直接横断するようなルートを課題に評価してはならないとする意見も重要であるとしながらも、大陸文化が直接海を渡り中央高地に入って来た可能性が大きいと述べている。以上、福澤説の概要です。
どうですか、みなさん。弥生時代から古墳時代にかけて、これだけの歴史を刻んでいる関川流域に朝鮮半島から移住者があって、少しも不思議ではないと思いませんか。その移住者の中には、関山神社の神体「金銅菩薩立像」を持参したものがいたと想定して、少しも違和感はないはずです。
さらには、関川を源流まで遡上して信濃・上毛野(かみつけ)へと向かったグループがいたと想定して、さほどの飛躍はないでしょう。ただし、何ごとにも断定は禁物です。私は、今後の究明を福澤さんのような中堅に託したく思います。
(第11回に続く)
1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。
【連載コラム くびき野の文化フィールドを歩む】
#9-1. 信濃川を遡る古代朝鮮文化の足跡をたどる