【文明論】第11回「嘘と本当」<前編> 山賀博之(ガイナックス元代表取締役社長)

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掲載日:2024年6月11日(最終更新:2024年6月23日)

日は東から昇り西へ沈む。否定しがたい現実に思えるが、ここにはフィクション性がある。

恒星である太陽は昇ったり沈んだりしない。我々が立っている地面の方が球体であり回転しているのだ。という否定しがたい現実があるからだ。

では、その情報をあなたは何で知りましたか? と問われれば、よく覚えてないけど本で読んだと思う。とか、テレビでやってた。とか、近所の物知りおじさんに聞いた。とか、かなり曖昧な返答をすることになるだろう。

当然、ここにもフィクション性の余地を認めないのは不合理である。

実際、世界一の科学的先進国であるアメリカに、進化論を許さない公的な勢力があるのはよく知られた話だ。どうやら、文明人が現実とかリアルとかについて語るとき、たとえそれが生活のレベルを越えなかったとしても、主観と客観の二通りでは足りないようだ。

ましてや、宇宙の果てから来るマイクロ波背景放射の情報と、ベランダにカラスがしていった糞の情報を同じ重さ(糞の方が重大か)で受け取っている生活だと、何かの拍子に「うわっ、リアルだね〜」などと声を発しながら、自分でもどのレベルのことを言っているのか、何にそう感じたのかさえも分からなくなってしまうことがある。

我々のように生活レベルでフィクションを取り扱う商売をしている者にとって現実という単語は、幾重にも積層した異なる定義をごちゃ混ぜのまま使ってしまっている要注意ワードの最たるものだ。「現実を見ろ!」と叱られても宇宙の果てへボケた視線を向けかねない。

そして、それは生活を越えて職務上、やはり重大な問題が起きてくる。

「日々の現実の中で感じているアレ。をリアルとする」と、きっちり対面で申し合わせたとしても、芸能が扱うリアルにはどうしても二つの面が現れてしまうってことだ。この二面を分かりやすく役者の例で定義するならば、演じている役のリアルと、今、役者の身体が客前に立っているという劇場のリアルがある。

映画、特にアニメの関係者はリアリズムという言葉に前者のリアルばかりを追う傾向がある。リアルな設定、リアルな形、リアルな演技、リアルな背景、リアルな音、これらは役のリアルに属する。では、映画制作で忘れられがちな劇場のリアルとは何か? 4DXや立体音響のことを言っているのではない。

その映画が人間によって人間の観客へ向けて作られた。という現実のリアル。たとえ千年の時がその間にあったとしても、作った人間には観客となる人間が(想定ではなく)未来の結果として実在し、観客となった人間にも作った人間の意識がその時その場に実在する。恒星間通信のように時間差で事象を接続する意識だ。

それは映画全体の随所に圧縮されて劇場へと送出され、観客の脳内にて解凍される。

多くの人が誤解しているが、劇場での映画の上映というパフォーマンスは、生身の役者によって行われる演劇とまったく変わることのないライブだ。舞台と客席の因果関係にSF的ともいえる時空の存在が割り込むため、構造の説明が非常に難しくなってしまっているが、観客は間違いなくライブ感を得ることによってのみ、その欲求を満たしている。

ライブ感の欠乏は、文字通り作品の死を意味する。これまでのアニメは、即ち、人の手が紙の上に鉛筆や筆で線を引く技法で作られる映画は、その点で実写映画に比べていくらか安全だった。その企画が工業製品としてまったく考え無しに量産される類のものであったとしても、最後には必ず、寝ずに描かれた一枚一枚の絵が自動的に、描いた人間のリアルな意識を吹き込んでいたからだ。

だが、アニメ業界全体として制作の技法は大きく変化している。もう、その自動的な安全には頼らない方がよいだろう。3DCGに加えてAIの活用が標準となっても観客へのアピールは機械任せにはならない。(逆にそこの自動化が無くなるのは皮肉だ)作る人間には明確な意識をもって劇場のリアルを設計する方法が求められる。

ところが、これを巡って疑念が生じる。芸能の扱うリアルに現れる二つの面、役のリアルと劇場のリアル。これが映画制作においては、今、あまり問題とされていないことだ。

人間である役者の場合は意識と無意識の使い分けによる、いわば結婚詐欺師のような便宜的キャラクターを作って舞台に立つことができる。しかし、先に述べた、自動化が消える。ということはアニメの制作方法には無意識の領域が無くなるということ。

この二面を明確な意識をもって設計する方法というのは、これは結婚詐欺ではもう済まないのではないか。涙ながらに嘘をつく一方で本心からの熱い思いを正直に語るという意識はどう考えても病的だ。

結局、私なりの病的でない方法というか、『蒼きウル』がとるべき方法は、映画の基本的な立ち位置を劇場のリアル、つまり客前にさらけ出し、古ぼけた騎士物語なんかを引っ張り出してきて、この映画は昔からよくある嘘、お伽噺です。と、開き直ることだ。その上で、その嘘の世界に嘘とは思えぬほどの大量のディテールを詰め込むという作戦で、役のリアルに対しても正面から勝負を挑む。

他の多くのアニメ作品に比べ、その辺りがちょっとメタな味付けなのが「作品」というよりは「祭り」であり、プロジェクトの目指すところとしても「創作の追求」よりは「大仏の建立」に近くなるのだと思う。この方法をとることにより、映画は大胆で元気な若いムードを帯びるはずだ。ついつい作品内世界に耽溺しがちになる老作家的な(自分のことですよ)匂いを振り払おうという狙いもある。

このような考えを巡らしている今、私はすでに本番の舞台の上に立っている。居並ぶ観客は決して脳内に浮かんだ想定ではなく未来の結果的な実体である。よく軍事系アクションものに出てくる「これは演習ではない!」ってくらいの正にリアルな状況だ。
映画という芸能の性質上、完成した時に我々のライブは終わっている。当然、実体の観客は最後まで誰もいない。私は空っぽの客席へ向かって、何光年離れているかも分からぬ星への通信の真っ最中だ。ここにある意識は逐次、圧縮されて未来のある日ある場所へと接続されてゆく。
日本では専ら名詞で使われるライブという単語は、元の英語の形容詞なら音楽の演奏などが生であること、自動詞では生きるという意味を持つ。本来であれば作品内で完結させてしまう映画制作の範囲を、制作者の生活にまで拡げて考えるわけだから、意識を向けるのはこの自動詞の方と見ていいだろう。

自分がこうして生きているこの「現在」という意識は、全人類が共通に持つ唯一の情報だと私は信じている。たとえ何光年先にいる一方向の通信相手であっても、それが共通の「現在」を生きる人類の観客であれば、時空の隔たりなど無視して、予め、意識の共有の場を作ることが可能なはずだ。

何の知識も体験も一切の情報のやり取りの無いまま、ただ同じ「現在」という意識を交感して盛り上がる。このライブを起動させるためには、先ず我々制作者が方向性を点である「現在」に対して表明しなければならない。その手始めとして取り掛かったのがこのエッセイ『文明論』である。

続きはこちら→ 【文明論】第11回「嘘と本当」<後編> 山賀博之(ガイナックス元代表取締役社長)

 

山賀博之 (絵・岸田國昭)

山賀博之

1962年新潟市生まれ。大阪芸術大学芸術学部を中退し、アニメーション制作の株式会社ガイナックスを設立。同社の代表作である『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(監督・脚本)や『新世紀エヴァンゲリオン』(プロデューサー)をはじめ、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(サンライズ 脚本)、『ピアノの森』第2シリーズ(ガイナ 監督)など多くのアニメ作品に関わる。

現在、還暦。フリーライター。新作「蒼きウル」を鋭意制作中。自称「世界奢ってもらう選手権第一位」「大馬鹿者が好き」。

 

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