【第12回③】「くびき野に旅人来たる、棟方志功!」くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)
前回はこちら→ 12-2.小川未明 にとっての憂国
12-3 くびき野に旅人来たる、棟方志功!
棟方志功『板極道』(中公文庫、1976年)を読むといいよ、と、一緒にNPOを切り盛りしている高野恒男翁に勧められ、ご本人から借りて読みました。
もともと、私は新潟県上越地方(くびき野)にやってきた棟方志功に注目していましたので、自伝である本書―「ばんごくどう」と読みます―を喜んでお借りし読んでみたのです。
ゴッホに心酔する青森県出身の自称「板画」家、棟方志功は、高田市の求めに応じて、1951年3月に高田市立図書館で個展を開催し、同年9月5日には柏崎市で個展を開催しました。それに先立つ1950年9月、棟方は写真家の濱谷浩とともに中頸城郡大潟村渋柿浜の青木俊秀(専念寺住職、2023年死去)宅を訪問していました。
この時は青木ら地元有志の求めに応じての来訪でした。青木はそのあたりの経緯を、2011年10月22日開催のくびき野カレッジ天地びと講座(上越市本町6丁目の町家交流館「高田小町」)で、以下のように回想しています。
本講座はビデオ収録されたので、それをもとに私の責任で文章化してみました。
夷浜ほか近隣の村民は、いきさつははっきりしないものの、米大舟が青森あたりから伝わった祭りだから、いちど棟方さんに見てもらいたいということになりました。
昭和24年春に、笹川さんという方が富山県福光町に疎開していた棟方さんに会いに行きました。11月来訪との承諾を得たものの実現せず、笹川さんの遺言で私(青木)らが再度依頼にでかけた。本当はたいへん興味があったようだったので笹川さんへのお詫びと共に諾意をしめされ、その結果、翌25年9月3日夷浜にいらした。
棟方は、その日の午前中に高田市で陶芸家の斎藤三郎(陶斎)を訪問し、そこで濱谷浩とも同席し、そのあと濱谷共々、大潟村渋柿浜の青木俊秀宅に移動しました。
その日のうちに海岸に出て、濱谷は、渋柿浜を走り回る棟方を撮影しました。風の強い浜を着流し下駄履きの棟方が駆け足で走りぬけるさまを下方から記録したものです。
左から右にかける姿を「風神」、右から左にかける姿を「雷神」と命名しました。そのうち風神を、私は2011年5月、大潟区の青木俊秀宅で拝見しました。青木ご夫妻は棟方と親交を結んでいまして、1950年7月、東京都下の棟方宅を訪問し、上越来訪を促したのです。
一方で濱谷浩は、1939年に上越市(旧高田市)を訪問し地元民俗研究家市川信次と出あって以来、雪国の風景と習俗に関心を持つようになりました。
他方で青森市出身の棟方志功は、大潟区一帯の漁村で9月2~3日に行われる同地方の民謡・盆踊り「米大舟(べいだいしゅう)」が見たくてならなかったのでした。
この伝統行事は、かつてこの地方に飢餓が襲ったとき、東北は酒田の北前船船頭が同地から救援物資を運んできた言い伝えをもとにしています。濱谷も棟方も、裏日本・東北日本に強い思い入れを感じていたのでした。
以上のフィールド調査をもとに、私はコロナ禍の2021年8月、上越市で「棟方志功ほか頸城野を旅した人々」と題する文化講座を開催しました。フロアーは聴衆の熱気で満ちていました。
本講座に関連するものとして「【インタビュー】石塚正英 頸城野民俗フィールドワーク30年を振り返って」(NPO法人頸城野ドキュメントライブラリー 2018年製作映像)があります。
https://www.youtube.com/watch?v=i4wL8lDp3vY&t=394s
最後に一言。昨年8月に開始した本シリーズは1年間継続し、今回をもちまして終了します。「にいがた経済新聞」の本コラムで一部なりともご愛読された各位には、こころよりお礼を申し上げます。