新潟が生んだ近現代小説家(2) 平出修『逆徒』(春秋社1965年刊『定本 平出修集』他) 片岡豊
我が家から歩いて15分ほど、上越高田の商店街本町通の裏手に築100年を優に超えている「平出修旧宅(新婚の家)」が修築・保存されています。その案内ボードに要を得た解説が記されています。
「平出修 平出修は明治11年4月3日、中蒲原郡石山村(新潟市)に生まれ、23才の時高田馬出町(大町2丁目)の弁護士平出善吉の妹ライと結婚、同家に入籍した。そして東京の明治法律学校を卒業し、司法官試補になったが、その後弁護士に転じ法律事務所を開業した。/彼は有名な幸徳秋水の大逆事件などで法廷に立つ一方、短歌革新運動に加わり、また石川啄木、吉井勇などともに文芸雑誌『スバル』を発行した。/このように彼は弁護士として、明星派の歌人及び評論家として、そしてまた社会小説の作家として法と文学両面に輝かしい業績を残し、将来を嘱望されていたが、大正3年3月17日過労のため37才の若さで他界した。相馬御風、阿部次郎、森鴎外らが弔辞を述べ、彼の死を惜しんだ。/平出修の霊は彼の願いによって寺町3丁目「性宗寺」に眠る。」「平出修の旧宅(平出修新婚の家) 明治33年9月から翌年1月まで平出修は妻ライと旧宅で新婚生活をおくった。旧宅は築120年を超え老築化(ママ)が著しく、2005年から「旧宅保存会」が市民からの寄付を集めるなど保存に向けた運動を実施し、市民の寄付と市の補助金あわせ1,400万円をかけ、平成20年9月から10月、平成22年9月から10月の2回にわたり修復された。/旧宅は木造1階建てで4畳と床の間のある6畳2間の簡素な造りだが、数寄屋風で欄間や襖の引手に細工が施されており、国の有形文化財に登録されている。」この平出修の代表作が『逆徒』と題された小説です。
「判決の理由は長い長いものであつた。それもその筈であつた。之を約めてしまへば僅か四人か五人かの犯罪事案である。共謀である一つの目的に向つて計画した事案と見るならば、むしろこの少数に対する裁判と、その余の多数者に対する裁判とを別々に処理するのが適当であつたかもしれない。否その如くに引離すのが事実の真実を闡明にし得たのであつたらう」と書き起こされ、「俺は判決の威信を蔑視した第一の人である」という語り手の一言で結ばれる『逆徒』は、弁護人として〈大逆事件〉の大審院裁判で論陣を張った平出修の、いわばドキュメンタリー小説です。11013年9月雑誌『太陽』に発表と同時に発禁となり、第二次大戦後になってようやく読者の目に触れることとなりました。
〈大逆事件〉は、1910年5月25日の宮下太吉逮捕に始まり、8月までに全国の無政府主義者、社会主義者ら多数が検挙され、26名が天皇暗殺を共同で計画したとして「大逆罪」で起訴された事件。大審院(今の最高裁)での非公開裁判で1911年1月18日に24名に死刑判決が下されたものの、「恩赦」で12名が減刑。1月24日には幸徳秋水以下11名が、翌日には管野スガが処刑されました。幸徳とともに処刑されたなかには小千谷出身の曹洞宗僧侶・内山愚童もいました。
平出修が『逆徒』冒頭で看破しているように、今日では〈大逆事件〉が時の国家権力の捏造による冤罪事件であったことが明らかにされ(子どもの未来社2010年刊 神崎清「革命伝説 大逆事件」全4巻等参照)、内山愚童も名誉回復、2013年、地元小千谷に愚童の事蹟を偲ぶ顕彰碑が建てられています。
37歳で早世した平出修の葬儀は「永訣式」として執り行われました。それには直接の交流はなかった夏目漱石も参列していました(夏目漱石、1914年4月17日付馬場勝彌(孤蝶)宛書簡参照)。1910年、〈韓国併合〉〈大逆事件〉を契機に日本の近代の歴史は〈敗戦〉への滅びの道へと舵を切りました。それから110年余の今、また再び「嘘・改竄・隠蔽」がはびこり、きなくささがいや増しに増しています。国家権力に冷静に対峙した平出修の墓前に立って、今の日本のありように思いを致してみたいところです。
片岡 豊
元作新学院大学人間文化学部教授。日本近現代文学。1949年岐阜県生れ。新潟県立新津高校から立教大学文学部を経て、同大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、新潟県上越市で「学びの場熟慮塾」主宰。