【文明論】第3回「古典」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)

クラシックというラテン語由来の言葉は、日本では古典主義と翻訳されたがその語元となっているのは「クラス」であり、これは格式とか一流とかを示し、古いという意味は含まれていない。そして古典という言葉も、ただ歴史や伝統があるという意味ではなく、中国から渡って来た本のことであり、それが国内で書かれた場合は、どんなに古くから伝わる立派なものであっても古典ではなかった。

要するに、どちらにしても元々の意味あいは「先進国から学んだ文明の正統な価値観による流儀」といったところ。しかし時代を超えて、これを簡潔に示す現代語がどうしても思いつかない。だから乱暴なのは承知のうえで、学問や教養によって立つ知的な志向をぜんぶひっくるめて、ここでは「古典主義」と呼ぶことにした。

科学や法律、哲学はもちろん、常識や道徳など、ことの上下を知的に評価する規範はすべてこの「古典主義」の中にあると考えている。

芸能の末席から世間を眺めていると、じつに無邪気に人は上下の序列を語るものだと感心する。それはもちろん口では好き嫌いを言っていることが多いのだが、本当に自分の趣味嗜好だけで番付表を作っているような御仁はめったに見かけない。

どのようなことを素晴しいと感じ、逆にどのようなことを駄目だと感じるのかは、無意識のうちにも周囲のセンスに添わせているはずだ。もし、そこに少しでもズレが見つかれば不安と孤独に苛まれるのが普通の人間である。

「自分は難しいことは分からない。感覚的に生きている」と言う人のほとんどが、常に世の評判(常識)に気を配り、知的にそれを処理している。その努力は涙ぐましいほどと言ってもよい。

「古典主義」は決して、難しい本を読む知的階層だけのものではなく、庶民を自認する社会の大部分の人にこそ機能している。だから、受験勉強はなくならないし、有名人やセレブへの憧れや嫉妬もネットをにぎわし続ける。

そのような社会の諸現象から浮かんでくるのが、都会に暮らす高学歴の教養ある有閑層。という「古典主義」にとっての理想的人物像である。なんだか昭和バブルのトレンディドラマに出てきそうなキャラだが、多くの庶民たちが、少しでもこの理想へ近づけるよう、今日も、日々膨大なコストを支払い続けているのは確かなことだ。

この理想の人物像。歴史はかなり古いらしく、我々の一つ前の文明であるギリシャ時代に確立したもので、(なぜか中国だと山深い田舎に暮らしていたりする)そうした理想的人物らによって育まれた哲学というものを基に、およそ二千年の時間をかけてヨーロッパ文明最大のウリである自然科学が、又、それを習得するための教育機関が創られてきた経緯がある。

そして、まさか地球の裏側でこれだけ多くの庶民が競って高等教育を受けることになろうとは、さしものソクラテスやプラトンも夢想だにしなかった未来社会が出現したわけだ。

ここでは、学問を修めた者が国を豊かにする。という公共の実利はとうに超えていて、身分の貴賤はもとより、美醜や趣味嗜好といった個人の心情まで、その規範に照らして評価されている。それは、いわゆる常識となって人々の感性にも染み渡り、こういった言葉の形であえて意識されることも稀となった。

稀であるがゆえに、こんなふうに書いていると、世知辛い現代を冷やかにに嘲笑っているかのように思われがちだが、この単元で言いたいのはそこではない。このテーマはなかなか言葉にするのが微妙なのだ。

人間は本来的に、感情で外界からの情報を受け取り、勝手な主観世界を構築して生きる気ままな観測者だ。そのくせ、自分の好き嫌いはどこかで普遍的な真理とつながっていて、自分の直感もけっこう的を射てるのじゃないかと期待してしまう身勝手さがある。私だってそうだ。(だって人間だもの)

その期待は自分の立ち位置をマジョリティに押し上げようと働く。

「普通はそう考える」だの「みんなそうだ」とか、さらには「そう考えられないのはバカだからだ」とまで言う。社会の中心に立ちたいと思う人はまあ少ないと思うが、その外側に放り出されるのには強い恐怖心を抱く人が多いだろう。

どうあるのが普通なのか? いや、ちょっと欲張って、どう振る舞うことで胸を張れるのか? 世の中の評価基準は矛盾と複雑さ、そして変化に満ちている。この人間の自然動物としての感情ではまったく普遍化できない難問に対して、文明側の正解を顕しているのが古典である。

これを宗教の提示する宇宙の真理と区別するのは難しい。が、論点を明確にするために、私の見えている景色だけをとっとと突っ走って述べるとすれば、残念ながらそこ、つまり古典にあるのは普遍的な宇宙の真理ではなく、ある偏った、とりあえず… といったようなローカルな規範である。

「古典主義」の基本ルールは、簡単に言ってしまえば「知的でありましょう」ということだと思う。自然に湧き起こる感情は極力横に置いて、すべてを理屈で捉え、真と善と美の価値判断において、何が上で何が下かを決めましょうという合理性を尊ぶ流儀だ。

この一見独立していそうな理屈の流儀が、なぜ古い書物や伝統のようなものに基礎を求めるのかといえば、それは集合知への信頼からだ。人間の短い一世代での知識や理屈の梯子では、到底、普遍的な真理と呼べるものに手が届かない。だから、時間を越え、テキストデータによって連結された何世代、何十世代もの人間の具合の良さそうな知識と理屈を集合させ、とりあえず… 可能な限り真理に近い象牙の塔を建立したい。という欲望ゆえだ。

21世紀の今も、人類が何かの真理に到達したニュースは聞いたことがない。にも関わらず多くの人は、真理というものが先ずあって、そこからの作用が現実の世界を作っているというモデルで語りたがる。

それと、真理に近いと思われる理屈の成立順序は逆のように見える。夜中に気温が氷点下まで下がったので池が凍った。ではなく、池が凍ったので夜中に気温が氷点下まで下がった可能性がある。と語ったほうが流儀としてはより正統なのではないか。

感受した情報を知性でモデル化するという、我々が当たり前にやっている脳内の活動は、社会から暴力を減らし、差別を是正し、より多くの人がより快適な生活をするためにたいへん有効だと思われる。

ただ忘れてはならないのは、これによる上下観というのが、人間の脳が行っている活動の中で最も古い部分である感情を横に置くことで成立したローカルなルールであって、決して宇宙に存在する真理から導き出されたものではない、ということだ。

真理への到達を曖昧にぼかすことで、この流儀は成立しているように私には見える。真理ではないが、とりあえず真理としておくことで今のところ人々に絶大な恩恵をもたらすのが、文明を支える中心の柱「古典主義」だと考える。

日本で知の神様といえば菅原道真だが、彼がまだ人間の学生であった時代に受けた試験問題が伝わっている。その一つが「地震について明らかにせよ」というものだが、今の自然科学であっても完全に明らかになっているとは言えないこの難問に、どう答えれば良い点数がもらえたのだろうか。

「地震は大地を支える亀が交代するから起きる」と彼は答えたそうで、判定は「中の上」。

ヨーロッパ文明の古典から生じた科学によって、物事を評価している我々には大喜利のネタとしか思えない珍答だが、当時としては、中国から渡って来た古典である三教(儒教、道教、仏教)に基づいた真剣なやり取りであった。彼らからしてみれば、現代のプレートテクトニクス説など、なんの教養も感じられぬ「下の下」解答の典型例かもしれない。

はたして地震が起きる原因は亀か? プレートか? その試験場がどの文明に属するかによって正解は変わる。もちろん、それは自然現象に限った問題だけではなく、受験者の出世を左右し、収入を決め、人生の質に関係するすべての試験においてこうだ。

たとえ、とりあえず… のルールであっても、それすら無い野蛮な荒野よりはとりあえず… の都会を求めて文明は広がってゆく。その潮流に振り落とされまいと人は必死で古典を勉強する。そこにあるのは何か? 私は「未来への夢」があると考えている。

以前に、江戸時代を舞台としたドラマに「未来」という言葉がセリフにあって、ひどく違和感を覚えたことがある。未来という言葉は、仏教から来ているし、その元となったインド哲学にも見られる概念だ。しかし、こんなに一般に広く使われるようになったのは、そう古いことではないのではないか。直感としては、やはりヨーロッパ古典から生まれた概念に、中国古典のそれまで特殊だった言葉が充てられたのではないかと感じる。

どうしてそう感じるかというと、その言葉が盛んに飛び交うようになった時代の光景を、はっきりと記憶しているからだ。1970年、万国博覧会が大阪で行われ、日本中が来るべき未来の夢に酔いしれた。この頃、公害や資源の枯渇などは、すでに大きな社会問題となっていたが、諸悪の根源はすべて野蛮な古い体質にあると考えられた。

私は、日本という地にヨーロッパ文明が行き渡ったのは1990年頃だと考えている。それまでの20年間、未来的と文明的は同義語として扱われた。芸術、思想、エンタメなどの分野も、メイン、サブの両輪で充実し多様な文化を生んだ。工業生産品は言うに及ばず。ヨーロッパ文明から発したすべての活動が未来での更なる成長を確信していた。

とりあえず… が真理と同等であるかのように価値を持つのは、永遠に来ることのない未来からの前借りが許されている故ではないのか。それを支えるのは、価値は時間とともに成長するという確信であり、まさにバブルの構造そのものだ。そして、すべてのバブルは成長している限り崩壊することなど考慮されない。

それではあの「未来への夢」はすでに終了し価値を失ったのか。というと、もちろんそうではない。旧プレイヤーたちの成長の鈍化は認めつつも、一度、惑星規模で確立された古典の権威が揺らぐことはなく、今も新しい挑戦者たちが続々と登場しているし、19世紀、発信源であったヨーロッパも、20世紀、それに続いたアメリカも近々に勝負から下りるようには見えない。

ただ、日本というあれだけ勢いのあった国を見た場合どうだろう。勢いに任せて一直線に成長してきたかつての挑戦者は、長い歴史で培われた冷静さをこの世紀で取り戻している。と私には思えるのだが、確かに老朽化したような倦んだムードを感じたりもする。

日本がもし冷静になったのなら、一つ振り返ってみてほしいと思うことがある。バブル時代の嘘くさい成長のことなどではない。1970年、あの万博のときに掲げた「人類の進歩と調和」というメインテーマだ。あれはちゃんと何かの形に成就したのか?

このテーマには山頭火が詠んだ自由律俳句のような趣を感じる。ここでいう「古典主義」に対する切り口として、これほど鮮やかな表現が他にあっただろうか。人類が進歩してこその未来であり、そこに調和する夢。これは、海を越え、百年かけてたどり着いた文明への率直なラブソングを、まだ慣れない新人だからこそ歌い切れた奇跡の瞬間だったと思う。

もしかすると、この歌は当時の元気な若者の勇み足で、発表が早すぎたのかもしれない。であればこそ半世紀の間、辺境出身としていろいろやらかして、それでもなんとか文明の集合知とリンクできてきた今、この古くて新しいテーマに立ち返ってみてはどうかと思うのだ。

何かと科学を代表とする硬直した「古典主義」が批判に晒されている今日この頃、物語作者としては無邪気な文明礼賛のストーリーは作りづらくなってきている。気候変動などの環境問題、エネルギー危機、過剰な兵器開発。これらを無視してSFアニメの閉じた世界だけで遊ぶ気にはなれない。

だが広く通じていると思われた知性の地位が絶対ではなくなり、多様な個人の感性が尊重される世の中になったのは理屈に合ったことであり、それこそが積年の成長の成果だと思うのだが、それを素晴らしいと評価できる大きな枠組みもまた、ヨーロッパ文明の古典に導かれた価値観であることをどう表現すべきか考えている。別の文明を迎えるその日まで、未来は夢見続けなければならない。我々はニュートラルな存在にはなれないのだから。

山賀博之 (絵・岸田國昭)

 

「文明論」第1回「駅裏」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)

【文明論】第2回「みちのく」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)

 

1962年新潟市生まれ。大阪芸術大学芸術学部を中退し、アニメーション制作の株式会社ガイナックスを設立。同社の代表作である『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(監督・脚本)や『新世紀エヴァンゲリオン』(プロデューサー)をはじめ、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(サンライズ 脚本)、『ピアノの森』第2シリーズ(ガイナ 監督)など多くのアニメ作品に関わる。

現在、還暦。フリーライター。新作「蒼きウル」を鋭意制作中。自称「世界奢ってもらう選手権第一位」「大馬鹿者が好き」。

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