【三浦展の社会時評】 第5回 「国語の試験問題」
入試シーズンが終わった。それで思い出すのは国語の問題だ。文章を読んで筆者が一番言いたいことはどれでしょう、以下の4つから選びなさい、というもの。
私は国語は得意なのでこういう問題を解けなかったことはない。だが自分の文章が試験に出るようになり、いっちょ解いてみようと思うとこれが難しい。
理由は、自分の考えが加齢と共に変わっている可能性があるので、昔の自分の文章を今と同じように理解できないということが考えられる。
また、毎日勉強していた時代とは違うので、根気よくこういう問題を解く気が起こらないということもある。
いや、そもそもこういう問題は難しいのだ。それが主因だ。
私の息子はこういう問題が苦手である。たしかに筆者が言いたいことを選ぶが、一番言いたいことではないものを選ぶ。一番言いたいか二番目に言いたいかを判断するのは、文脈を理解しないといけない。結論部分であらためて繰り返しているとか、Aという考えとBという考えを比較して、BのほうがAよりも正しそうだと判断しているとか、そういう筆者の思考の流れを理解しないといけない。
つまり文章全体をしっかり読む必要があるが、息子はどこかでこれが筆者の言いたいことだと思うと、他のことと比較せずにすぐにそれを選んでしまうのだろう。
Facebookを見ていたら、同じように自分の文章が有名中学の試験問題になった人が、質問が4問とも解けなかったと驚いていた。そしてそのことを編集者に話し、編集者に問題を解いてもらったら、いとも簡単に正解を書いたというのである。
なぜか。その編集者が言うには、実はこうした問題は筆者の意図を聞いているというよりも、この文章はこう直したほうがもっとよくなると考える能力を試すものだというのだ。
直すためには筆者の意図を理解する必要がある。そのうえで、その意図が正しく読者に伝わるかを判断する。これじゃ伝わらないとか、伝わるけどもっとよく伝えられるはずだと考える力。これが編集者の力である。一番言いたいことはこれなのに、この書き方だと二番目に言いたいことに読めちゃいますね、だからこうしたらどうでしょうという提案の力である。
私も若いときに編集長をしていたので少しわかるが、部下の書いた文章が、一文一文はまったく問題ないのに、全体として何が言いたいかわからない、もやもやしている、頭にすっと入ってこないということがある。
そういう場合、たとえば前半と後半を入れ替えるといきなり全体が見違えるほどわかりやすくなることがある。前半と後半を入れ替えとごらんと部下に提案した瞬間に、彼らは「あっ!」と声を上げて驚いて納得したということが二度あった。提案しただけで納得したのだから部下も優秀なのである。そういう優秀な部下でも文章がうまく書けない、特に構成がぐちゃぐちゃになることはままある。今の私でもそうである。
しかしだ。そう考えるとやはりこの国語の問題は難しすぎるということがわかる。小説を書いてみたい人はたくさんいるが編集者になりたい人は多くない。
へたな小説なら誰でも書けるが、能力のある編集者はひとにぎりだ。たくさんの編集者と私も付き合ったが、先ほどのような能力を感じたのは文藝春秋の女性編集者だけである。時間がないのでぐだぐだ書いた私の原稿を少し直したいと彼女から電話があり、いやあ、こういうことで、こう思っているんだが、ああでもなく、こうでもなくという感じで、などと話したら、彼女がすっきり文章を直してくれたのだ。
つまり、この種の国語の問題の能力はおそらく1万人に1人くらいの能力なのである。それを中学入試の問題にする意味があるのか。もちろん有名中学だから、それこそ将来文藝春秋の編集者になる人もいるだろう。その能力を小学校のうちから鍛えておくのは意味があるかもしれない。あるいは重箱の隅をつつく役人の養成には適した問題かもしれない。いや、裁判官や弁護士になるなら、こういう能力は必要だろう。
だが、だが、だが、やはりこういう問題を解く力は、自由な自己表現を伸ばすことの対極にあるようにも思える。もっとやることはないのかと思う。
自己表現は採点がしにくい。どう子どもが感じたかは子ども次第なので、それを書かせて試験で判断するわけにはいかない。もしそれを入試問題にしたら採点にものすごく時間がかかるし、思想チェックにもなる。だから、文章を読んで理解したかどうかを測る問題ばかりが出される。
だが、だが、だが、それだけでいいのだろうかとやはり私は思ってしまう。私はこう感じた、こう思った、ということをどうしたら上手く表現し伝えることができるかをもっと学ばないでいいのか。
小説家やアーチストのように自己表現自体を仕事にする人は少ないかもしれないが、どんな仕事にも自己表現をする機会は多い。サラリーマンだって会議で主張したり、客に対してプレゼンテーションをする。
だがわれわれは、一部の大学教育などを除けば、ほとんど自己表現の技術を学ばずに社会に出てしまうのだ。自己表現をするとむしろ煙たがられる風潮も日本社会には根強いのも良くない。
結果、たとえば「良い街とはどんな街か」とか「都市の美」というものは個人的で主観的で数値化できないから、客観基準にはできず、だから都市計画をするときは経済合理性のみで計画され、古くて味のある街並みが壊され、ただ広い道と大きなビルができるということにもつながるのではなかろうか、とまあ、ちょっと飛躍しているが思うのだ。
他方、私の娘は読書感想文が苦手だった。ということを知ったのは彼女の30歳の誕生パーティである(今年です)。しかも中学高校時代に、感想文が宿題のときは、宿題を提出したことがなかったというのだ! え、そうだったのか、とびっくりした。
が、実は私も読書感想文が苦手だった。宿題はすべて出したが、苦手だった。感じたことは、主人公は勇気があるなあとか、可哀想だなあとか、まあ、そんな一言で済んでしまうわけで、それで原稿用紙1枚か2枚の感想文を書こうとすると、9割方はあらすじを紹介するだけで終わっていた。
自分が感じたことや思ったことを言葉にしてみんなの前で話す訓練はあまりなかったのに、いきなり原稿用紙に感想文を書くというのも無理な話である。
今の教育はどうなっているのか。昔よりはいろいろな工夫がされているように思うが、本質的には変わらないようにも思う。
それでも私はこうして文章を書くようになった。実は四十年前は四百字詰め原稿用紙四枚を書くのもやっとだった。三十年前でも五十枚は苦痛。すらすら書けるようになったのは二十年前である。それは思ったことを書けば良いと腹をくくってからである。
文章を書くのが苦手だという人は、ほめられないといけないと思うからである。ダメだ、へただと言われたくないからである。試験されることに我々は慣れすぎているのだ。ただ思ったことを書いていいなら、結構書けるものである。
さてこの文章で私が一番言いたいことは何でしょう?
三浦展(あつし)
1958年新潟県上越市出身。82年一橋大学社会学部卒業。(株)パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。86年同誌編集長。90年三菱総合研究所入社。99年カルチャースタディーズ研究所設立。消費社会、世代、階層、都市などの研究を踏まえ、時代を予測し、既存の制度を批判し、新しい社会デザインを提案している。著書に『下流社会』『永続孤独社会』『首都圏大予測』『都心集中の真実』『第四の消費』『ファスト風土化する日本』『家族と幸福の戦後史』など多数。