新潟ゆかりの文学者たち(6) 堀口大学「皮肉でなしに」(1987年12月小澤書店刊『堀口大學全集9』所収)  片岡豊

上越高田に縁の深い写真家・濱谷浩(1915~1999)はある鼎談で「私は新潟県の高田へ疎開しておりました。高田の寺町というところに小田嶽夫先生(注:当連載第4回参照)がいらして、小田先生のご案内で妙高山麓の関川に堀口家をお尋ねしたのが昭和二十一年の五月……」と語っています(『別冊かまくら春秋』1987年3月)。この堀口とは詩人・フランス文学翻訳家で、1979年に文化勲章を受章している堀口大學。彼もまた1945(昭和20)年7月、東京からの疎開先、静岡県の興津に爆撃があり、難を逃れて「妙高山麓の関川」にある妻・マサノの実家に再疎開していたのでした。

関川から高田の南城町三丁目に移ったのは1946(昭和21)年の11月。それ以後1950年6月、神奈川県の葉山に転居するまで足かけ5年間を、マサノとそしてまだ幼い長男広胖(こうはん)、長女すみれ子と家族4人で過ごしました。そこで知り合った「堀口大學の……云わばお酒の聴講生」(同前)と自認する濱谷浩との交流は生涯続くことになりました。同じ鼎談で堀口すみれ子が「父にお酒をきらさせたことがないのが自慢だと、母はよく言っておりました」と語り、また「父の晩酌」と題したエッセイに「父のお酒は、からみもしないけれどからませもしなかった、風格のあるお酒でした」(『父の形見草 堀口大學と私 1991年4月文化出版局』)と書いているように、堀口大學もまた大層な愛酒家だったのです。

高田の住居跡に案内板があり、そこから10分ほど歩いた高田城址公園内のバタフライガーデンの一角に堀口大學の詩碑があります。そこには「ひかるる思ひ/うしろ髪/残る心の/なかるべき/棲めば都と/いふものを/高田よ さらば/幸くあれ/お濠の蓮よ/清う咲け/雪とこしへに/白妙に」と「高田に残す」と題された詩が刻まれています。小田嶽夫や濱谷浩ら当時の高田文化人との交わりのかけがいのなさを偲ばせます。

高田での暮らしは50代半ばからのことでしたが、堀口大學が幼少年期を過ごしたのは長岡市でした。1892(明治25)年1月8日、まだ帝国大学の学生であった長岡藩士族・堀口九萬一と村上藩士族江坂氏の政の長男として東京本郷森川町に生まれた大學は(ちなみにこれは本名です。父が大学生であり、また赤門前に生まれたところから名づけられたと言われています)、数え年3歳で母と死別、また父親が外交官となって外地に赴任したことから、父の郷里長岡の地で祖母のもとに育てられることとなりました。長岡町立阪之上尋常高等小学校を終えて旧制長岡中学に進んだ頃から文学に親しみ、卒業後一高受験のために上京。受験には失敗しますが、折しも祖母の死に直面し、納骨のために帰郷する際たまたま触れた明星派の歌人・吉井勇の短歌に魅されて新詩社に入り、歌作・詩作を始めます。その後与謝野鉄幹の薦めもあって1910(明治43)年慶応大学文学部の予科に入学。ところが翌年10月、父に呼ばれてメキシコに渡って以降、時に短期間帰国することはありましたが、1925(大正14)年3月に、ベルギー人女性と再婚して新たな家庭を形成していた父の官界引退に際して帰国するまで、ベルギー、スイス、スペイン、ブラジルなど10数年間を海外で過ごしました。

海外生活の中で大學はさまざまな文学者と交流し、また自ら好もしいと思うフランスの近代詩や小説の翻訳にいそしんでいました。帰国前の1924(大正13)年7月、新潮社からポール・モーランの『夜ひらく』を刊行。横光利一らの新感覚派誕生にきっかけを与え、また帰国後1925年9月にはジャン・コクトー、ラディゲ、アポリネールなど66人のフランス詩人のアンソロジー『月下の一群』を第一書房から刊行。その清新な口語訳は日本の詩壇に大きな影響を与えることとなったのです。その後の大學は戦前戦後を通じて数多くのフランス小説・フランス詩の翻訳を続けるとともに、1981(昭和56)年3月15日になくなるまで、自らの歌作・詩作に励んだのでした。大學の作品群は数多くのエッセイとともに『堀口大學全集』(全9巻、補巻3巻、別巻1巻 1981~1988年小澤書店)としてまとめられています。

社会派ならぬ芸術派とみなされている堀口大學。その彼に、恐らくはサンフランシスコ条約・日米安保条約締結(1951年9月)直後に書かれた「皮肉でなしに」という4連からなる詩があります。その第2連はこうです。「一度はっきり覚えて下さい、/帝国日本は亡びてしまったのだと、/今の日本は別の日本、/帝国日本、軍国日本とはつながりを断った日本。/つながりがあってはならない日本だと。」

帝国日本の「亡び」から78年。いままた再び「亡び」への道を進んではなりません。

高田城址公園の一角、バタフライガーデンに建つ堀口大學碑

神奈川県葉山町HPから。写真は濱谷浩

 

片岡豊

元作新学院大学人間文化学部教授。日本近現代文学。1949年岐阜県生れ。新潟県立新津高校から立教大学文学部を経て、同大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、新潟県上越市で「学びの場熟慮塾」主宰。

 

【過去の連載記事】

新潟が生んだ近現代小説家(1)坂口安吾『風と光と二十の私』(講談社文芸文庫他)

新潟が生んだ近現代小説家(2) 平出修『逆徒』(春秋社1965年刊『定本 平出修集』他) 片岡豊

新潟が生んだ近現代小説家(3) 小川未明「野ばら」(岩波文庫『小川未明童話集』所収) 片岡豊

新潟ゆかりの文学者たち(4) 小田嶽夫『三笠山の月 小田嶽夫作品集』(2000年9月 小沢書店刊) 片岡豊

新潟ゆかりの文学者たち(5)  相馬御風「小川未明論」(1971年12月角川書店刊『近代文学評論大系』第4巻所収)  片岡豊

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