【文明論】第4回「勝ち負け」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)
喧嘩をすれば叱られるが、何かにつけ懸命に闘うのは褒められる。これって、小さい子供には混乱する躾じゃないだろうか? 私はした… いや、今もまだ釈然としていない。競争やそれを維持する闘争心を露骨に煽る人たちを完全にしらけた目で見ている子供だったし、今もそうだ。世間での評価やスポーツの勝敗だの馬鹿馬鹿しくって付き合うフリもできやしない。ほぼこれだけで第一級の変人として分類される。
そんな変人にも、避けて通れないものとして刷り込まれた闘いがある。最近はお笑いのネタにしか使われず、でも昭和の頃には誰も笑わなかった「食ってゆく」という我が闘争である。刷り込んだのは昭和ヒト桁生まれの親なのは言うまでもない。現在のところの戦況は、まあ、おかげさまで好調と言えるだろう。その親から「そんげ(な)ことじゃ食ってけねぇわや」と嗤われた職業で四十年も食えてきたのだから、これを上出来としなければバチが当たる。
生・老・病・死というのが人生につきまとう四つの苦しみだという。うしろ三つは誰だってそうであろうな。とは思うだろうが、一番目にある生、つまり生きることそのものが生きる上での苦しみだというのは、ちょっと分かりづらい。
人間はたとえ寝て暮らしていても、その生命を維持するための栄養、基礎代謝量というのが毎日、千数百キロカロリー必要で、さらにそれを得るために動きまわるならば、その倍は摂取しなければ生きられない。これは、ここ半世紀ほどの日本では、あまりシリアスな話題として語られなくなったが、かつては、そして他の地域では今も、突きつけられる宿命的課題として、子供を含む多くの人たちを脅かし続けている。
自分の腹についた脂肪のことは忘れて、素の人間として考えてみた場合、生きている限り、毎日、毎日、欠かすことなくこれだけのカロリーを摂取してゆく、家族に摂取させてゆくということが逃れられない宿命ならば、人生の道程において相当の重い荷物であることは間違いない。また、ニュースに現れる多くの難民の方々を例に挙げるまでもなく、「食ってゆく」というのは当然、食糧だけのことではない。水や衣料、住居、基礎的医療、安全の問題を含んでいる。さらに心身の健康、人間としての尊厳や基本的人権まで考えれば、「食ってゆく」ためだけに確保すべきカロリー(つまり払うべきコスト)はかなり大きなものとなる。
生まれて地上に現れた瞬間から、本人の意志とは関係なくこの闘いが始まっているという世界観で生きてきたので、余計な勝負ごと(学校での評価や他人のやるスポーツ)に取り合っている心の余裕が無かった。といったところなのかもしれない。
しかし、21世紀も四分の一まで来た現在の日本で、人々の、勝った。負けた。の評価の中心が、もう少し別のところへずれてきていることくらい、いくら旧世代型変人の私でも肌触りとして感じている。若者も年寄りも、男性も女性も、どちらかまだ決めかねている人も、この数十年の間で、はっきりと社会からの扱われ方を意識するようになった。そこには闘争的な感情が介在していて、確保よりは獲得という言葉がよく使われる。
もちろん、私にそれらを揶揄する気持ちなど毛ほどもありはしない。しかしながら、この現象もまた、人間の知恵が真理に近づいてきた過程ではなく、長い歴史の流れの中に現れたローカルな渦の一つとして捉える視点は必要だと考える。
社会からの扱われ方というものも、栄養摂取の件と合わせて大きなコストがかかる、だから、その原資が自然界に無尽蔵に存在しない限り、満足いく程度にそれを享受できる人の数は、その社会ごとに決まっていて、必然的に分配のための序列、つまり社会的階層が設けられる。
日本の社会が、一億総中流時代とされていた頃に比べて、階層の上下間の格差が拡大したとは思えない。当時の私などが空想すらできないほどの上流階級は実際にあった(大人になってから知った)し、見たこともない下層の生活もあったはずだ。私は自分の生まれ育った家こそが天下の中流だと無邪気に信じていたが、思い起こせば、通っていた市立の小学校のクラスメイトにもいろんな家庭の子がいた。(お誕生日会とか修学旅行とか、今になってそうゆうことだったかと理解できる)
ただ、国際的に見ても、実質的な暮らし向きで見ても、国があまり豊かではなかったあの時代、国民の全員が「食ってゆく」こと自体があまりに難しくて、そこに憂いなく暮らせれば、それだけで中流、それだけで満足という状況があったことは記憶している。決して長閑な社会だったとは思わないが、中流の勝者のイメージが、でかい家に住むとか、外車を乗り回すとか、ビフテキが毎日食えるとか、なんだかしょーもない物欲中心で、国力が成長中の社会では、順番さえ待っていれば思いのほか簡単に叶う夢ばかりだった。
それだけに、敗者とされる方も大した傷を受けているように見えない。松本零士の1971年連載開始の漫画『男おいどん』の大山昇太は九州から東京に出てきた若者で四畳半一間の下宿に住んでいる。収入はたまのバイトだけで、一人ラーメンライスを食べて生きていた。今でいう負け組の彼に悲壮感が無いのは、それが漫画だからという理由だけではないだろう。ざっくりとしたイメージとして当時の平均的日本人は、勝って得るものが少ない代わりに、負けて失うものもやはり少なかったのだと思う。映画やドラマ、小説や流行歌でも、貧乏暮らしの哀愁はむしろ人気のテーマだったが、その悲壮感が描かれることは少なかった。
一方、現在はどうかというと、人々の生活事情が半世紀前と比べて格段に向上したのは確か(今、新連載の少年漫画で何の説明もなく、主人公を四畳半でサルマタケと暮らさせるわけにはいかないと思う)だが、市中のあちこちで怨嗟の声が大きくなったのは気のせいじゃないだろう。確実に勝ち組だと思っていた人たちも、精神の不安定さを隠すことなく表明していたりする。印象としては、社会全体で勝ちを誇る人が減少し、自分が敗者であると主張する人が著しく増えたように感じられる。誇れば攻撃の的にされるから。とも、これまで黙って耐えてきた人たちが声を上げるようになったから。とも、理由は考えられるのだが、「食ってゆく」問題が軽減するのとともに自殺を選ぶ人が順当に減った中、その若者の比率が上がり続けているのは気のせいじゃなく統計の数字だ。
いくら日本に経済成長の停滞があったといっても、大恐慌やマイナス成長が続いたわけでもなく、街も田舎もインフラが整備され、希望するすべての個人に高速の情報ネットワークが繋がり、好きな時に好きな映画が観れて遠方の友人たちとも遊べる。日本に暮らす人の生活の質(少なくとも飲み食いの質)は明確に改善されたはずだが、ただ敗北感だけが世の中に蔓延したのは、競争の勝ち負けの判定ルールが変わった。つまり、改善により多くの問題が解消されたことで、古い競争は終了し、新しく争って求める欲望は、「食ってゆく」ことと離れたところへ移ったのである。
これは正に低次物質的欲求から高次精神的欲求への移行で、心理学者のアブラハム・マズローが唱えたまんまのことが、21世紀の日本社会全体で起きたわけだ。マズローは、「低次の欲求が満たされるとそれまで見えていなかった高次の不満が強く現れる」と言っていたが、おそらく、彼が活躍した1960年代のアメリカより、こっちの方が劇的な変化があっただろうと思われる。
そのせいか、マズローは高次の欲求の不満にはかなり楽観的だったようで、それらは長く待てる。だの、そのうち消えてしまうことが多い。だのとさえ言っていたが、日本の現状は、消えるどころかかなり膨らんでいるように見える。この社会的な自己承認欲求と自己実現欲求は、脳内で作られた蜃気楼のごとき幻想の欲望でありながら、(低次の欲求と異なり、直接その欠乏で死に至ることはない)しつこく人々の意識にこびり付いて早急の解決を求めたまま蓄積してゆく。
しかし、日本中の若者が、必死で勉強をして難関中学、難関高校そして難関大学を受験したところで合格するのは極少数。(だから難関)学問に限らずどの分野でも、社会的に誇れる立派な地位を大量生産することはできない。多くの人が自己承認を得んと自己実現せんと闘えば闘うほど、極少数の勝利者と大量の敗北者を生み出し続ける。これは「食ってゆく」のに困っていた時代には誰も見えていなかったジレンマだ。
「人はパンのみにて生きるにあらず」ならば、その不足分の「神の声」はどこから聞こえてくるのか? もちろん宗教的な解決法はここでは採用しない。だが、物理ならぬ人の心を考えるときに、長い時間の中で宗教が試みてきた数々のアプローチは、新米の脳科学者や心理学者の説教より有効なことがあるかもしれない。
13世紀末の神学者ドゥンス・スコトゥスは、それまでの神学体系を批判し、神の存在を地上の因果の外、つまり天に置いた。(これを当たり前と思うのは今の人)神の啓示は因果に関係なく天という別次元から地上の平面へ垂直に落ちてくる。
いや、ここから何が得られるかというと… どうも、論理=因果で欲望=因果の解決を図るのは、所詮、パンの生産数をどれだけ増やせるかという域から出ない気がして、それが迷走する公の施策が陥っているワナを感じさせるのだ。もし、「パンのみ」じゃない分を補ってくれる「神の声」があるとするならば、それは原因と結果の連鎖の外にあるんじゃないか。というのがマタイ伝とスコトゥスの合わせ技といったところ。
無宗教が建て前なら神も天も無いではないか。 って考えているあなた。それは前提無く無条件に普遍的現実を設定した思考モデルです。
実際に生きている人の世界認識はどうやったってニュートラルなモデルのようではありえない。必ず生まれ育った集団、それが属する文明(現在、幅を利かせているのはヨーロッパ発祥の文明)の影響を受けて、ものの善悪、階層の上下が規定されている。もし宗教の言うヒューマノイド型の神や仏が存在しなかったとしても、人間の精神には必ず上位に何かの規範があって、そこから発せられたルールに従って自分と世の中を判断をしている。もし、その規範が自分にとって不都合だと感じ、それ以外の生き方をしたいと思うなら、集団を抜けて孤独を選ぶか、許容できる別の集団を探さなければならないが、それで上手くやれている人は少数だと思う。
多くの人々はそこで定められた「上」を目指し、いつまでも「下」にいる自分に溜め息をつく。会ったこともない人の微妙な違いや瑕疵を見つけては、あんなのより上だ。とか、あれはダメだ。などと、自分と社会の評価を組み立てて心の安寧を得ている。
この、ぱっと見に情けない感じの次元を地上の因果平面とするモデルならば、そこにもう一次元足して、別の「上」方向を仮想的にでも設定できるのではないか。
もちろん、このモデルも、集団の規範から完全に離れて設定されることはないだろう。であっても、そうした文明が規定する逃れ難い価値観を、たとえ仮想であったとしても、ちょっと俯瞰して眺めるだけの視点を人間は持っているはずだ。それは、文明が訪れる以前から自己として認識している身体の生理的感覚である。
私は「美しさ」という上位概念をそこに充てようと思う。これにしたってニュートラルな存在ではありえないのは前述したとおりだ。「美しさ」は理性が関与して起きる感覚であり、文明の規範を参照して決定される。たぶん野生の動物には無い感覚だろう。しかしながら、先ほど設定した因果平面で「上」「下」を決めるプロセスとは違い、ここでは生理的な情動もその評価に関与している。そして、体験的にもこう言えるだろう。「美しさ」は(稀ではあるが)垂直に落ちてくる(こともある)間違いなく上位の概念だ。
理屈も根拠も関係なく突然、天から落ちてくる「美しさ」。そんなものが社会の役に立つことがあるのか? 私は、少数の勝利者と大量の敗北者発生のジレンマを解くカギは、正にこの仮想モデルにあると考えている。
ここまでのところでは、まったく説明が足りず説得力を欠くが、話は次の単元へと続く。その前にこのモデルに名前を付けておこうと思う。私はこれを「バロック」と呼ぶ。
1962年新潟市生まれ。大阪芸術大学芸術学部を中退し、アニメーション制作の株式会社ガイナックスを設立。同社の代表作である『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(監督・脚本)や『新世紀エヴァンゲリオン』(プロデューサー)をはじめ、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(サンライズ 脚本)、『ピアノの森』第2シリーズ(ガイナ 監督)など多くのアニメ作品に関わる。
現在、還暦。フリーライター。新作「蒼きウル」を鋭意制作中。自称「世界奢ってもらう選手権第一位」「大馬鹿者が好き」。
【過去の連載】
「文明論」第1回「駅裏」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)