新潟ゆかりの文学者たち(7)松岡譲筆録・夏目鏡子述『漱石の思い出』(1994年7月文春文庫) 片岡豊
長岡市御山町にある長岡大学の右手の急坂を5分ほど歩いて登り切ると、突然白亜三層の城郭に至りつきます。ここ悠久山公園の丘の上に建つのは、長岡城本丸の隅櫓、「御三階」をモデルに1968年に建設された長岡市郷土史料館。三層の城郭を回り込んで史料館玄関口から悠久山公園へ続く道を少し下ると、右手に立派な文学碑が建っています。案内板には「松岡譲文学碑・堀口大學添文碑」とあり、碑には「法城を護る人々」と刻印され、その脇に据えられた添文碑には「黒尊仏の君までが/達者が自慢の君までが/僕より先に逝くなんて/むごくはないか/松岡君/待てなかったか」と、「鴉山人」と題された堀口大學の松岡譲追悼の詩の一節が刻まれています。
松岡譲は1891(明治24)年9月28日、古志郡石坂村大字村松(現長岡市村松町)の松岡山本覚寺の長男として生まれます。長岡中学時代には文学とともに水泳や野球にも親しみ、卒業後1910(明治43)年一高に進学。芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、成瀬正一などと同級生となり、その後東大の哲学科に進みます。この間に芥川や久米たちと第三次『新思潮』(1914年)第四次『新思潮』(1916年)を立ち上げ、若き文学者として属目されるようになります。また1915年12月に初めて漱石山房を訪れ〈木曜会〉の一員となり、どちらかと言えば大人しやかな松岡は、漱石から「越後の哲学者」と言われるようになりました。
松岡は少年期・青年期を通じて本覚寺を継がせたい父親との確執に終始します。漱石亡き後の1917(大正6)年7月、松岡は哲学科を卒業するのですが、その際も父と対立。ようやく自活を条件に自らの道を歩み始めることになりました。そしてそれを助けたのが漱石夫人の鏡子。松岡は家庭教師という名目で夏目家に暮らし始め、やがて1917年4月、夏目家の長女・筆子と結婚。それ以後長年にわたって鏡子夫人の相談相手となり、陰に陽に漱石亡き後の夏目家を支え続けたのでした。
ところがこの結婚は、文学者としての松岡の道を大きく左右することとなったのです。というのも、松岡の一高以来の親友・久米正雄が筆子との結婚を以前から望んでいて、それこそ『こゝろ』の先生とKとの三角関係もどきのドラマがこの背後にはあったのです。恋に破れた久米は「受験生の手記」(1918年3月『黒潮』)を筆頭に失恋体験を素材とした小説を発表し続け、実体験をそのままに「破船」(1922年1月~12月『主婦之友』)を連載するに至って久米は人気作家の地位を確立していきました。一方松岡はこの間沈黙を守り、1923(大正11)年6月、その後長く交流を続けることになる長谷川巳之吉の第一書房から、父との確執を素材とした自伝的長篇小説『法城を護る人々』を刊行してベストセラーとなったものの、文壇の中心で活躍する久米とは裏腹に「非文壇作家」として長篇小説『憂鬱な愛人』(上巻1928年11月第一書房、下巻1931年10月第一書房刊。近年復刊ドットコムより新装版あり)などを上梓。その後1944年11月、戦禍を逃れて長岡に疎開して後、1969年7月22日に脳溢血で逝去するまで長岡にあってさまざまな執筆活動あるいは書画に時を過ごす事となったのでした。久米との確執は戦後にいたってようやく氷解するに至ります。
小説家としては不遇であった松岡譲ですが、彼の残した仕事でやはり大切なのは師であり岳父でもある漱石についての作品です。『漱石先生』(1934年11月岩波書店)、『漱石の漢詩』(1946年9月十字屋書店)、『漱石の印税帖』(1955年8月朝日新聞)など数々ある中で白眉はと言えば、女婿ならでは著し得なかった『漱石の思ひ出』(1928年11月改造社)です。これは松岡が事前に諸資料に当たった上で鏡子夫人の話を、その話しぶりをも活かしてまとめたもので、漱石の家庭人としての姿を彷彿とさせるエピソードに充ちた著作です。刊行後、漱石の「神格化」に寄与した小宮豊隆から手厳しい批判もありましたが、今となっては漱石を知るに欠かせない必読文献です。
松岡譲と堀口大學は、旧制長岡中学で5年間机を並べた同級生。堀口は失敗したものの卒業後の一高受験をともにした仲でした。堀口の外遊時代は付合いが跡絶えるものの、堀口帰国後交友は復活します。ちなみに添文碑に刻まれた堀口の追悼詩は「高田の家から持越しの/僕の表札/佶屈で高邁で/肩肘張ったきつい四字/君の揮毫だ/松岡君/大事にしている」と続きます。その性格も、生き方もまた文学者としての在り方もまったく異なる二人ですが、この追悼詩には同じ雪国に育った者への哀惜の念があふれ出ているように思います。
元作新学院大学人間文化学部教授。日本近現代文学。1949年岐阜県生れ。新潟県立新津高校から立教大学文学部を経て、同大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、新潟県上越市で「学びの場熟慮塾」主宰。
【過去の連載記事】
新潟が生んだ近現代小説家(1)坂口安吾『風と光と二十の私』(講談社文芸文庫他)
新潟が生んだ近現代小説家(2) 平出修『逆徒』(春秋社1965年刊『定本 平出修集』他) 片岡豊
新潟が生んだ近現代小説家(3) 小川未明「野ばら」(岩波文庫『小川未明童話集』所収) 片岡豊
新潟ゆかりの文学者たち(4) 小田嶽夫『三笠山の月 小田嶽夫作品集』(2000年9月 小沢書店刊) 片岡豊
新潟ゆかりの文学者たち(5) 相馬御風「小川未明論」(1971年12月角川書店刊『近代文学評論大系』第4巻所収) 片岡豊