新潟ゆかりの文学者たち(8) 西脇順三郎 詩集『旅人かへらず』(那珂太郎編『西脇順三郎詩集』所収 1991年11月岩波文庫) 片岡豊

小千谷市立図書館を訪ねると、そこには西脇順三郎記念室・記念画廊があります。記念室には、長年にわたって慶応義塾大学で英文学を講じた西脇順三郎寄贈の洋書約1200冊が書架に収められ、また記念画廊では、これも若い頃から生涯絵筆を離すことのなかった彼の絵画作品を鑑ることができます。小千谷図書館から車で15分ほど、市街地を外れ信濃川の河岸段丘崖を登り、さらに山道をたどると山本山の山頂へといたります。そこからは眼下に蛇行する信濃川、遠くに越後三山が、眼を転ずれば小千谷の町並みが広がり、彼方には長岡の街が望見され、はるかに弥彦の山も眺められます。

この山本山の山頂広場の一角に、それぞれの風景を見晴るかすように大きな詩碑が建てられています。その南面には「山あり河あり/暁と夕陽とが/綴れ織る/この美しき野に/しばし遊ぶは/永遠にめぐる/地上に残る/偉大な歴史」と西脇の筆跡が刻され、北面には西脇の戦後初めての詩集『旅人かへらず』(1947年8月 東京出版)の168番が明朝体で刻まれています。

永劫の根に触れ/心の鶉の鳴く/野ばらの乱れ咲く野末/砧の音する村/樵路の横ぎる里/白壁のくづるる町を過ぎ/路傍の寺に立寄り/曼陀羅の織物を拝み/枯れ枝の山のくづれを越え/水茎の長く映る渡しをわたり/草の実のさがる藪を通り/幻影の
人は去る/永劫の旅人は帰らず

西脇順三郎は堀口大學とともに日本の詩壇に現代詩への飛躍のきっかけを与えた詩人でした。順三郎は1894(明治27)年1月20日、父・寛蔵、母・キサの次男として出生。(父は小千谷銀行取締役でその実家、西脇本家は元禄時代から続く縮問屋で財をなし、本家は小千谷に現存しています)小千谷尋常高等小学校から小千谷中学校に進んだ順三郎は教師のすすめもあって卒業後上京して画家を目指します。ところが父親の死などさまざまな事情が重なって画家の道を断念し、慶應義塾大学の理財科(今の経済学部)に進みますが、姉の手ほどきで小学生から始めた英語学習に磨きをかけ、英書を読みあさるとともに、英仏文学に傾倒。卒業後はジャパン・タイムス記者、外務省嘱託を経て慶應義塾大学の予科英語教員となって英語で詩作を開始。1922(大正11)年には慶應義塾留学生として渡英。1925(大正14)年11月に帰国後、翌1926年に慶応大学文学部教授に就任します。

滞英中はオックスフォード大学で学ぶ一方で、T・S・エリオットやジェームス・ジョイスなどのモダニズム文学運動やフランスのシュールリアリズム革命に触れ、その波のなかで英詩製作に励み、1925年8月には英語詩集『Spectrum』をケイム・プレス社から自費出版。渡英時に萩原朔太郎『月に吠える』(1917年2月刊)を読んで日本語での詩作の可能性を感じていた西脇は、帰国後詩人・詩論家として旺盛な活動を始め、1929(昭和4)年11月に『超現実主義詩論』を厚生閣書店から、翌1930年11月には『シュルレアリズム文学論』を天人社から刊行。さらに1933(昭和8)年2月、詩人百田宗治の椎の木社から初めての日本語詩集『Ambarvalia』を刊行して詩壇に新風を送り込んだのでした。

しかしながら時代はすでに戦争への悪気流が流れています。渡英中に結婚したマージョリ・ビッドル夫人は1932年4月、順三郎と離婚後帰国。彼は同年八月、桑山冴子と結婚し新たに家庭を設け、俳句にも手を染めますが、戦争が本格化すると、高村光太郎に象徴されるように多くの文学者・詩人が戦争協力に走るなか、学問的な仕事を続けながらも詩人としては沈黙を守ります。そして1944(昭和19)年12月、家族とともに郷里・小千谷に疎開、敗戦後、慶應義塾大学の教壇に復帰するまで小千谷で過ごしました。『旅人かへらず』は疎開中の小千谷で構想された詩集です。

ひとたび詩人としての活動を復活させた順三郎は、1952年11月、エリオット『荒地』を創元社から翻訳出版、翌年10月には詩集『近代の寓話』を創元社から刊行。その後も詩人・詩論家として85歳で刊行した詩集『人類』(1979年6月 筑摩書房)にいたるまで数多くの詩集・詩論を発表し「強固な内的必然から発した」「一貫性ある豊穣な」詩的世界を作り上げ(大岡信「昭和詩史」)たのです。ノーベル文学賞の候補にいくたびか挙がるなど、世界的に評価される詩人としての生涯を、西脇順三郎は1982年6月5日、郷里・小千谷で全うしました。

なお、小千谷市では毎年西脇順三郎を偲ぶ講演会が催され、今年は6月3日に開催される予定です。

山本山山頂広場の詩碑(北面)

記念講演会ポスター(小千谷図書館HPより)

片岡豊

元作新学院大学人間文化学部教授。日本近現代文学。1949年岐阜県生れ。新潟県立新津高校から立教大学文学部を経て、同大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、新潟県上越市で「学びの場熟慮塾」主宰。

 

【過去の連載記事】

新潟が生んだ近現代小説家(1)坂口安吾『風と光と二十の私』(講談社文芸文庫他)

新潟が生んだ近現代小説家(2) 平出修『逆徒』(春秋社1965年刊『定本 平出修集』他) 片岡豊

新潟が生んだ近現代小説家(3) 小川未明「野ばら」(岩波文庫『小川未明童話集』所収) 片岡豊

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新潟ゆかりの文学者たち(6) 堀口大学「皮肉でなしに」(1987年12月小澤書店刊『堀口大學全集9』所収)  片岡豊

新潟ゆかりの文学者たち(7)松岡譲筆録・夏目鏡子述『漱石の思い出』(1994年7月文春文庫) 片岡豊

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