【文明論】第6回「和魂洋才」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)
日本人の両親のもと、日本でだけで生まれ育って、今も日本に暮らしている私は、自分の生活スタイルや考え方こそが紛れもなく東洋人的であり日本人的であると思っている。確かに、厳密に審査すれば平均値からズレている点もあるだろうが、それだって、完璧な平均的キャラクターが異常であるように、正常な分散の一つだと信じている。
この私にして、思考言語だけは日本語であるものの、それ以外の衣・食・住から娯楽、運動、仕事といった人生の活動のすべてが和風ではない。
中国風でも朝鮮風でもない。いわゆる洋風な生活をして生きてきた。(正座は拷問の一種だ)もしこれで、母語まで英語だったりしたら、自分は完全に西洋の家の子になってしまうのではないかとさえ思う。
だが繰り返し言うが、私が60年間体験しているのは100%現代の日本のスタイルなのである。この国で生きることは即ちヨーロッパ文明の中で生きることであり、それ以外に分類される活動は各個人の余暇の時間の趣味でしかない。
我々は西洋からやってきた科学や思想や風俗などの恩恵と共に、そこに含まれた解決不能に見える諸問題もまた、今、自分自身に起っている一大事として考えている。その昔、北アフリカの人たちが立派にローマ文明の一員であったように、我々、非西洋圏の人間もみんなヨーロッパ文明の住人であることは疑いようがない。
学校で習う歴史では、西洋史と日本史の年表を、まるで別の星の歴史であるかのように切り離して、16世紀のフランシスコ・ザビエルと鉄砲伝来の出来事以外、我々の祖先と彼らの祖先の土地で起こった事件は、ほぼ現代史に至るまでは、まったく関連するところが無いものと教えられる。
だが、こちら側も明治に初めて法治国家が誕生したわけではなく、昭和21年の憲法公布で文明国となったのでもない。この列島には、それまでの文明(これは中国文明)と土着の精神との長い、長い葛藤の歴史があって、その結論とも見える19世紀(これ西洋式の年代区分だけど)を迎えたところで、同時代に飽和したかのように膨らんだヨーロッパ文明に呑み込まれたのだ。
二つの歴史の物理的な接触は、確かに教科書に書かれたものにて試験としては正解だろうが、人類史という一段大きな観点を導入すると、ユーラシア大陸での西と東のどん詰まりにある地方の大河ドラマは、細かく比較すればするほど、同じタイトルの別バージョンであるかのように見えてくる。
それは双方の人が二地点を行き来するようになるずっと以前からそうだ。天災や疫病など、発生する事件。戦争。登場する人物の行動。金持ちと貧乏人。民衆の動き。宗教へ寄せる思いなど、インターネットが無かったとは思えないほど、リアルタイムで同時に同じような事件が双方の年表を紡いでいる。
外国、それも地球の反対側くらい遠い異郷のことは、どうしてもその違いばかりに目を奪われがちだが、冷静になって考えてみれば同じホモサピエンスがやってきたこと。それぞれの地域のちょっとした事情によって違う対処方法も試したりしているが、お互い語らずとも、同じ問題(飢餓や格差、それによる争い)に打ちのめされ、同じ幸福(家族と自身の健康と安全な暮らし)を追い求めてきた同胞の分派なのだ。
百年の目盛りで歴史を語ればローカルな地域の興亡史であっても、それを数万年まで拡張すれば人類の彷徨の歴史となる。つまるところ、あの文明だのこの文明だのといった話ではなくなる。それらはすべてが、我々人類が荒野での自然な死を否定して、妄想の楽園を探し求め世界中を移動してきた足跡である。
そうした意味での中心と辺境、先進国と途上国、都会と田舎、一流と三流。ここでは、その、何処にどのように暮らす誰にでも当てはまる普遍的なテーマを語っているつもりだ。
だから、「ゴシック」だの「古典主義」だの「バロック」だのという西洋芸術様式の用語を使っていながら、それもやはり普遍的な概念を含めているのであり、ウエストミンスター寺院やダ・ヴィンチやベルサイユ宮殿のことばかりを言っているのではない。
ただ、ヨーロッパ文明はすでに我々日本人の思考に深く染み渡っていて、地の言葉での代替がきかない。そればかりか、過去にヨーロッパが積み上げてきた理性や知識といったものは、我々が生きてゆくための社会の基本的な骨組みとなっている。ならば、これら三つの主要様式の持つ視線の角度をそのまま使うことで、複雑な生のこの世を単純な形にして、加工可能なモデルに変換できるのではないか。と私は考えている。
「ゴシック」はもの悲しい世界の感触を、「古典主義」は秩序と安定をもたらす科学を、「バロック」は理屈を超えた儚い夢を、これら三つは綺麗に世界を三分割した角度を持っていて、それぞれの視線から見える濃淡が、三原色の画像のように重なることで現実の世界を映し出す。といった仕掛けのモデルである。
このモデルを使って加工された現代の日本は、多くの人々に現実を呑み込みづらく感じさせている、人間のエゴや既成概念などのノイズ要因を三様式のどれかに丸め込んでしまうため、世界を端正ですっきりしたクリアーな景色に見せることができる。それでありながら、疑似現実としては精度の高い実用に耐えうるものになるはずだ。
もちろん最初から述べている通り、これは学術レベルの精度ではない。あくまで生活者の臨時の実用として、誰もがとっかえひっかえ使って生きている疑似現実の一つとしてならイケるだろうという話だ。
学者かルポライターでもない限り、自分に与えられた現実世界を虚心坦懐、極力そのままの形で正確に観測しようなどという人は少ない。(聞いたことはあるが、お会いしたことは一度も無いと思う)私を含めほとんどの人が、これぞ現実と思い込んでいるものは、ネットニュース顔負けの、自分の感情に任せて合成しまくった不思議な妄想である。そうしたボケた像にそれなりの焦点を与えるには充分な精度があるということだ。
私がここで『文明論』とタイトルをつけて書いているこの雑文が、どこも『論』を目的としたものでないことはお判りいただけるだろうか。私は専ら物語作りをすることで生きており、それ以外の社会に対するアプローチの方法を知らない。
単元が6にもなって初めて白状するが、物書きでもない私がこのエッセイを書くにあたっては、冒頭で表明していなかったテーマが一つある。日々の思い付きを日記のように書いているこの文章で、自分が日々の思い付きでやっている物語作りの手順を何とか記録することはできないかと考えているのだ。
物語は人間の脳にとって世界を認識するための一番メジャーな方法だ。隣の恋人のことから国際政治のことまで、直接に知覚していない事は、皆、物語を使って足りない情報を補完しながらこの現実に対処している。
もちろん、私が作っているという物語は社会に頒布されることを前提とした商品となるものだ。そこに個人の脳内の活動と線を引きたい気持ちは分かる。だが、その人が直接見聞きした情報と、商品として購入した情報の区分けは難しい。
朝のニュースやYouTube、天気予報、交通情報、教科書や通っている学校さえすべて商品であり、それらが都市生活者の世界創生を大きく担っているのだから。
私は、文明人である自分を成り立たせているこの世界に、物語という皮だか肉だか分からぬものを腑分けする役目で介入してゆきたい。という欲望を持って生きている。
そう、○○文明と呼ばれるものはそれ自体が物語であり、なんなら、中央線文明でも関西文明でも組み上げることは可能だ。(普通は一歩へりくだって文化というが)ただ、そこを区分する線があるとすれば、人々が無意識のうちに受け入れている物語と、あえて意識的に組み上げた物語の違いだろう。
その無意識に居座って人の脳に指令を出している物語に「お前は何者か?」と問うてみたのが、これまで長々と述べてきたところだが、この素朴な問いによって、それまでどうにも掴めなかった無意識のモヤモヤは出身地も素性も明らかになり、新しい物語の素材として意識の俎上に載せることができるようになった。それを包丁で綺麗に三枚におろしたってわけだ。(うまい)
整理しよう。
私が商品として作っている物語は疑似現実の一つであり、素材はヨーロッパ文明という物語に浮かぶ日本の社会。日本人シェフの私が目の前の現実をすくって美味しいところを三つにカットした。
それが「ゴシック」的現実と「古典主義」的現実と「バロック」的現実という、三つを重ねればそれなりに高い精度でこの世を映し出す疑似現実モデルだ。
ここまで来るのにけっこうな年月がかかった。どの辺りに手こずったかといえば、自分がどっぷりと外国由来の文明に浸って生かされていながら、その感覚を肌でははっきりとは自覚できていなかったところだろう。
物心ついたころから日本は西洋型の工業国で、身の回りに見えるものは家電製品であれ自動車であれ全て日本製だった。(もっと階級が上流だったら違っていたかも)確かに、ファッション雑誌や化粧品の広告で西洋のモデルさんが映っているのを見ると、このカッコイイは我々に向けたものじゃないんじゃないか。とも疑ったが、ただ自分がダサい田舎者ゆえにそんなひねくれた考えを持ってしまうのかも。という可能性も捨てきれずにいた。
世の中は経済成長時代。漫画『ドラえもん』に描かれた空き地が時代の景色だった。私だけではないと思う。東京も新潟も、たぶん大人たち全員が、日本の日常の感触からくる現実感と、商品が押しつけてくる外国風の現実感のギャップに落としどころを見つけられず混乱していた。
その後、自分が大人の一員に加わってからも、そのギャップには釈然としなかった。そして、和風と洋風という単純に日本の現実の景色を二つに割った、お仕着せの二大様式を頭に載せたまま、はっきりとした落としどころを示さねばならない仕事に就いてしまう。
二つの特徴を良いように合わせた和洋折衷と呼ばれる様式は自分のカッコイイがどうも納得いかない。和は100%和のまま、洋も100%洋のまま上手く整理する方法はないか? と既存の作家、芸術家の仕事をジャンル問わずあれこれ探ってみた。
目の前に漠然と広がる現実は、耽美であれ、エロであれ、厭世的であれ、享楽的であれ、何らかの様式に納めないことには、自分には到底扱えないと思ったからだ。
しかし、これが自分にとって文句なく「カッコイイとは、こういうことさ」と言い放てる様式はなかなか定まらない。そんな逡巡はアニメ映画を一本作り終え、世の中がバブルで浮かれ出すようになってもまだ続いていたように思う。
日本がバブルの、1990年頃というのは、新潟のような地方であっても実に様々なイベントが行われ、世界中からアーティストが訪れた。やはり、何が凄いか? 何がカッコイイか? 何がオシャレか? そんなことは誰も考えず、手あたり次第に目立つものを掴んでは口々にそれらの言葉を叫んでいた。(その後のヤバイ!よりはバリエがあったか)
数年を経ずしてバブルは崩壊。日本は現在にまで至る「空白の…」と表現される時代に入る。だが、実のところ空白だったのはそれ以前からのことであり、私は、いや多くの人たちは、それからの10年の方が、騒乱の収まった静かな東京を眺め、海流の中に浮かぶ片田舎の島の祭りの後を思い、ゆっくり、本物と感じられる日本の価値を探し始めることができたのではないか。
私がヨーロッパ発祥の文明についての考察などを始めたのも今世紀に入ってからのこと。地球上の諸都市は物理的にも情報的にも緊密に結ばれ、東西南北の同質化とその反動の問題がすごい勢いで進んでいた。どの国を訪れても「で? あなた方にとってヨーロッパ文明ってどうよ」というテーマが頭から離れなかった。それは中東や東洋だけじゃなくヨーロッパの国やアメリカでもだ。
もちろんそこでも明確な答えなど出ない。たぶん五十代になってからだと思う。あちこち見てきた地域の中でも、こと「文明の衝突」といった件に関しては日本に暮らす人たちが一番自覚的に捉えているように感じる。(個人の感想です)ともかく日本の文明に絞って考えようと決めた。そうこうして、五年ほど前にやっとたどり着いた結論があのモデルなのである。
1962年新潟市生まれ。大阪芸術大学芸術学部を中退し、アニメーション制作の株式会社ガイナックスを設立。同社の代表作である『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(監督・脚本)や『新世紀エヴァンゲリオン』(プロデューサー)をはじめ、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(サンライズ 脚本)、『ピアノの森』第2シリーズ(ガイナ 監督)など多くのアニメ作品に関わる。
現在、還暦。フリーライター。新作「蒼きウル」を鋭意制作中。自称「世界奢ってもらう選手権第一位」「大馬鹿者が好き」。
【過去の連載】
【文明論】第1回「駅裏」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)
【文明論】第2回「みちのく」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)
【文明論】第3回「古典」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)