【三浦展の社会時評】 第13回「コスパとタイパ」

先日『表現者クライテリオン』という雑誌の座談会に出た。テーマは「コスパ」と「タイパ」。つまりコストパフォーマンスとタイムパフォーマンスを追求する現代の若者への批判である。

若者と言っても、私の観察では今の50代前半が20代の頃からそういう傾向は始まっていた。コストベネフィットの追求という傾向もリスクを恐れる傾向も強まっていたと思う。景気が悪くなればそういう発想になるのは致し方ない面がある。

言い換えると、若者が内発的にコスパ至上主義になったわけではない。企業は本質的につねにコスパ・タイパ至上主義であるが、特にバブル崩壊後の30年間、「リストラ」だのなんだの言ってやってきたことは、構造改革というよりは単にコストカットだった。だが新しい価値の創造はできなかった。新しい利益を生む商品をつくれなかったのであり、そのかわりにコストをひたすら削減したのである。

こういう30年の中で、今の若者はコスパ至上主義を空気のように吸って育ってきたのだ。高度成長期に生まれ育った私の世代と比べて、積極性に欠けるというか、リスクを嫌がるとか、効率性を追求する傾向が強まるのは当然であろう(もちろんベンチャー企業を興した人たちは違うが)。つまり、この30年の生活習慣病のようなものが「コスパ主義」である。

三菱総合研究所のデータを調べてみると、確かに若い世代はコスパ重視でものを選ぶ人が多い。古い考え方だと「コスパ重視はお金のない人に多い」と思うが、実はそうではない。「上流」「中流」「下流」で分けてみると、20代では上流も下流もコスパ重視の人が多いのだ。また生活満足度とコスパをクロス集計してみると、満足している人もしていない人も、同じくらいコスパを重視している。お金がない人がコスパ重視になっているのではなくて、だれもがコスパ重視なのだ。

現状の満足度と将来への不安度を二重クロスして集計すると、「現状には満足しているが、将来は不安」という人が一番コスパ重視である。現状に満足はしているけれど、将来が不安だから無駄遣いはできないのである。

また、日本の将来に不安があると早く稼いでおきたいという気持ちが強まる。本屋に行くと「とっとと1億円稼ごう」という本がたくさん並んでいる。おそらく、40歳くらいまでに稼いでFIRE(経済的に自立して早期退職すること)しようという内容なのだろう。日本全体として閉塞感があって、泥船から早く逃げるための金だけは持っておこうという気持ちが強まっているからである。

また、座談会に同席された文芸評論家の浜崎洋介氏が『映画を早送りで観る人たち』(稲田豊史著、光文社)というベストセラーを解説したところによると、早送りで観る理由の一つは体験を求めているのではなく、わかりやすい情報を求めているということであり、「情報強者としての優越感を持ちたい」ということだという。

そういえばある日本屋で立ち読みをしていると、大学生らしい女性が先輩とやってきて、西洋神話のコーナーの前でいろいろな本を見比べながら「あ、これ、わかりやすそう!」と何度も言いながら本を選んでいた。「面白そう」ではなく「わかりやすそう」と言うところが今風なのかもしれない。大学の課題のために読むなら面白いよりわかりやすいことが重視されるのは当然であるが、じっくり考えてわかることより、あっという間にわかることを求めているだろうことは彼女の態度から感じられた。

第二は「情報を共有するコミュニティについていくこと」が至上命題になっているということ。「生存戦略としての一・五倍速」というものだそうで、「情報を共有している共同体から外れることへの恐れ」と「強迫観念」があるのだという。つまり現代社会の中で負け組に落ちないようにするために、いろいろな事象への知識を一応身につけておきたいという心理があり、そのために映画すら倍速で観るのだという。

だが、私の昔の会社の後輩が女子大の教授をしていて、彼が学生に聞いたところ、学生はさすがに映画を倍速では観ていないという。ただしコロナでリモート授業が広がったために、教授の話を倍速で聞く学生は多いという。

私自身は仕事で必要があって映画やドラマやyoutubeを観るときは倍速で観ることも多いし、飛ばしながら観ることもある。だがさすがに小津安二郎の映画を倍速では観ない。もし小津安二郎を倍速で観る人がいたら注意したい。小津の独特の間合いを倍速で観るのはおかしいからだ。落語も倍速で観たらおかしいだろう。間合いこそが落語の神髄だからである。

倍速とは少し違うが現代人はいろいろなところで時間を省略している。和食が大好きという人も、ペットボトルのお茶を飲む。今は、ゴミが増えるからという理由で葉っぱからお茶を淹れる人は少ない。自分でお茶を淹れたら1杯10円もしないし、それを水筒に入れて持ち歩けばペットボトルのお茶代が浮く。ひと月で3000円くらい節約できる。本当にコスパを考えるならペットボトルは買わないはずだ。だがタイパを考えるとペットボトルになるのだろう。要するに面倒くさがりなのだ。

米をとぐのが面倒だと思うから無洗米を買う。アイロンをかける時間がないからシワにならない素材の服を買う。料理を作る時間がないから外食をする。外食は高いからコンビニ弁当で済ます。すべてはコスパとタイパである。

だがそうした暮らしからは、味わいや落ち着きが失われている。浜崎氏が研究した劇作家であり評論家、そして鋭利な文明批評家でもあった福田恆存は、たしかこう書いたことがある。「忙しいという言葉は昔からあるのだから、昔の暮らしも忙しかったはずだ。だが昔と今とでは忙しさの意味が違う。昔の忙しさは、その忙しさの中に落ち着いていられる」。たとえば夜なべをして子どもの服のほころびを縫う。鍋を洗う。たしかに忙しい。だが今はそれをするしかない。しなければ明日の朝、飯が食えない。子どもが着る服がない。

「だが現代の忙しさは、こんなことはしていられないという忙しさなのだ」と福田は言う。

まさにその通りだ。ほんとうは映画なんて観ている時間はない。こんなことはしていられないはずなのだが、観ておかないと話について行けないから観る。映画という娯楽をゆっくり味わう・楽しむのではなく、観たことにしておくだけになっている。米をとぐ行為だって、たしかに面倒だが、シャカシャカという音を楽しみ、ぬかの匂いをかぐことから暮らしの豊かさを感じることもあるはずだ。洗濯でも掃除でも、面倒だが楽しみや豊かさがあったのである。

その楽しみと豊かさを無駄だ、コストだと言って切り捨て、その代わりに私たちは何を得たのか。パートに出て給料を得た。その給料で子どもを塾に入れた。そのために弁当を作らねばならない。夜遅く塾が終われば迎えに行く。かえって忙しくなったのである。結果、ますますコスパとタイパが生活価値観の中心になる。

私は高度成長期に育った人間だから、コストが2倍になってもパフォーマンスが3倍になれば良いと考える。時間が2倍かかってもパフォーマンスが4倍になればいいのである。

だが失われた30年のコスパとタイパは、同じパフォーマンスを維持するためにコストとタイムを削るばかりだった。そして削られたのはコストとタイムだけでなく、もしかしたら生活の質であり、豊かさだったかもしれない。そう反省してみる必要がある。

三浦展(みうらあつし)

1958年新潟県上越市出身。82年一橋大学社会学部卒業。(株)パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。86年同誌編集長。90年三菱総合研究所入社。99年カルチャースタディーズ研究所設立。消費社会、世代、階層、都市などの研究を踏まえ、時代を予測し、既存の制度を批判し、新しい社会デザインを提案している。著書に『下流社会』『永続孤独社会』『首都圏大予測』『都心集中の真実』『第四の消費』『ファスト風土化する日本』『家族と幸福の戦後史』など多数。

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