新潟ゆかりの文学者たち(10)會津八一 『自註鹿鳴集』(1998年2月 岩波文庫) 片岡豊
新潟県上越市板倉区針に新潟県立有恒高校があります。1964年に移管され今は県立高校となっていますが、その前身は有恒学舎。1868(明治元)年に針村に生まれ、上京して漢学を学んだ増村朴斎が、私財を投じて1896(明治29)年4月に開学しました。創立間もないこの有恒学舎で1906(明治39)年9月から1910(明治43)年8月まで英語教師として教壇に立っていたのが、後に歌人・美術史家・書家として名をなす若き會津八一です。
會津八一は1881(明治14)年新潟市古町通5番町に料亭湾月楼を営む會津家の次男として生まれます。父親は豪農の市島家から養子に入った政次郎。八一という名は8月1日に生まれたことにちなみます。西堀小学校、新潟高等小学校から新潟県尋常中学校(現・新潟高校)に進んだ八一は、5年生のころから俳句や記紀万葉(古事記・日本書紀・万葉集)に親しみ、俳句を『ほととぎす』へ投稿しはじめ、また新潟を訪れた尾崎紅葉や坪内逍遙に刺激を受けてなお一層文学への関心を深めました。
1902(明治35)年4月には東京専門学校高等科予科に入学。その後早稲田大学文学科に進んで英文学を専攻します。坪内逍遙や小泉八雲などの薫陶を受け、「キーツの研究」を卒業論文として1906(明治39)年に卒業しました。早稲田では一級上に小川未明、同級に相馬御風らがあり、新たな文学の創造に高揚した雰囲気がありましたが、八一はその頃を振り返って次のように語っています。
……予が家の財力はますます衰へ、予は辛うじて月々の下宿料をこそ払ひ得たれ、新聞の購読すら易からざるほどの窮乏のうちに在りしかば、予は殆ど何人とも交際らしきこともせず、ひそかに学内の図書館に通ひて、己が好める数十冊の古書を読みしくらゐのことにて、平々凡々として三十九年七月に卒業し……(「『鹿鳴集』後記」)
ところが、八一自身が「平々凡々」と回想する青年期に一点の灯火もあったのです。それは当時美人の誉れ高い渡辺文子との恋愛でした。文子は女子美術学校に通う画学生。南画家・渡辺豊洲の一人娘。相思相愛の関わりであったにもかかわらず、八一は単身有恒学舎に着任することとなり、やがて二人の間柄も疎遠になっていきます。会津八一はそれ以後1956(昭和31)年11月21日に新潟で永眠するまで配偶者を得ることなく過ごしたのでした。
有恒学舎での4年間は失意の時間でしたが、しかし青年教師としての八一は教育に熱意をもって取り組みます。『會津八一全集12巻』(1984年5月 中央公論社)に収録されている着任早々の「一年級乙組記録」を見てみると、「組会を催す。/間食につきて注意を与へ、臨時試験に対する心得を教ゆ。要に曰く、学問は自家の修養の為めにするものなれば、日夕勉励すべし。試験は恐慌を以て迎ふべきものならず。又慢心を以て迎ふべきものにあらず云々」とあり、若き教師の緊張した様子が伝わります。
またあるときには事故を起こした生徒への対応もしなければならず、一方で創立者の増村朴斎が受け持っていた「倫理」の授業の代講を何度も引受けて、増村の若き八一への信頼をうかがわせます。着任3年目の夏休みには初めて大和路の旅に出て短歌20首を詠じ、また書をよくするようにもなります。有恒学舎での4年間は、失意の時であったと同時に、八一が美術史家、歌人、書家としての礎を育くむ揺籃期でもあったのです。
その後の八一は、早稲田中学、早稲田大学附属高等学院教授と教職経験を重ねながら、1926(大正15)年からは早稲田大学文学部で東洋美術史を講じ、1931(昭和6)年には文学部教授に就任。1933(昭和8)年、『法隆寺 法起寺 法輪寺建立年代の研究』を刊行(1933年5月 東洋文庫)、翌年この著作により文学博士となりました。八一は1945年4月14日の空襲で焼け出され、新潟へ疎開するまで教育熱旺盛。戦時下にあっても学生を引率して奈良を旅するなど研鑽を怠りません。そして戦後は東京へ戻ることなく、新潟を拠点に書画の個展を各地で開催し、歌人としては1951(昭和26)年3月、『会津八一全歌集』を中央公論社から刊行し、読売文学賞を受けています。
『自註鹿鳴集』は1940年5月に創元社から刊行された歌集『鹿鳴集』に「自註」を施して1953(昭和28)年に新潮社から刊行されました。寡作の歌人、また平仮名表記にこだわり続けた歌人。『自註鹿鳴集』は一首一首を手塩にかけて詠みあげた八一の世界のおおしさに読者を導いてくれます。愛酒家でもあった會津八一。この歌集を一献傾けながら味わってみるのも一興……。
元作新学院大学人間文化学部教授。日本近現代文学。1949年岐阜県生れ。新潟県立新津高校から立教大学文学部を経て、同大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、新潟県上越市で「学びの場熟慮塾」主宰。
【過去の連載記事】
新潟が生んだ近現代小説家(1)坂口安吾『風と光と二十の私』(講談社文芸文庫他)
新潟が生んだ近現代小説家(2) 平出修『逆徒』(春秋社1965年刊『定本 平出修集』他)
新潟が生んだ近現代小説家(3) 小川未明「野ばら」(岩波文庫『小川未明童話集』所収)
新潟ゆかりの文学者たち(4) 小田嶽夫『三笠山の月 小田嶽夫作品集』(2000年9月 小沢書店刊)
新潟ゆかりの文学者たち(5) 相馬御風「小川未明論」(1971年12月角川書店刊『近代文学評論大系』第4巻所収)
新潟ゆかりの文学者たち(6) 堀口大学「皮肉でなしに」(1987年12月小澤書店刊『堀口大學全集9』所収)
新潟ゆかりの文学者たち(7)松岡譲筆録・夏目鏡子述『漱石の思い出』(1994年7月文春文庫)
新潟ゆかりの文学者たち(8) 西脇順三郎 詩集『旅人かへらず』(那珂太郎編『西脇順三郎詩集』所収 1991年11月岩波文庫)