【コラム】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年(第1回) 石塚正英(東京電機大学名誉教授)
親鸞読書から頚城野学の構築を決意
私の頸城野学事始め、あるいは頸城文化の探索フィールドワークは1990年に起点を有します。当時の日記をめくると、以下のような記述が目に留まります。☆『親鸞』(岩波の日本思想大系11)を読み、親鸞研究を開始する(1990年11月28日)。☆きょうから「親鸞ノート」を執り始める。偶像を破壊する親鸞を吉本隆明の著作から学んだ。やはり親鸞に入っていきたい理由があったのだ(91年3月22日)。☆平野団三『越後と親鸞・恵信尼の足跡』読みに入る。長岡の剣持利夫氏に手紙を出し、親鸞関係、越後古代史関係の文献紹介等を乞う(4月15日)。
当時、私は、古代地中海文化(神話や旅行記)を素材にして、価値転倒の社会哲学(フェティシズム)を討究テーマにしていました。それは、通常は崇拝の対象である神々とて、条件や環境の変化に応じて信徒に虐待され殺害されもする、という社会心理・民俗儀礼の研究です。その道すがら、私は、わが故郷の仏教美術史家である平野団三翁(1905-2000年)の著作『越後と親鸞・恵信尼の足跡』(柿崎書店、1976年)を読むこととなるのでした。その動機は、信仰において仏像も伽藍もことごとく価値否定する親鸞思想への社会思想的接近にありました。親鸞は、遠流の地、原初的野人たちの住む越後のくびき野で初めて自身を発見したのです。「出家人の法は、国王に向って礼拝せず」(化身土文類末)の親鸞は頸城野で、価値転倒の極みである「悪人正機」(嘆異抄)の根性を鍛えたのでした。親鸞思想に対するそのような心境のうちに、私は親鸞読書を以下のように続行していきました。赤松俊秀『親鸞』、笠原一男『親鸞』、野間宏『親鸞』、吉本隆明『最後の親鸞』などなど。
けれども、親鸞読書の出立点で私は、親鸞のことはとりあえずどうでもいいような記述に出会ってしまったのです。1991年4月22日の日記にこう記されています。「平野団三著作読了(後半は乱読)。たいへんな記述にうれしくも、ぶつかる。法定寺の雨ごい地蔵の虐待奇習だ。これぞパウサニアス、スエトニウスに通じる、縛る神だ!」 この前後数日『教行信証』を乱読していましたが、実はそれは『嘆異抄』ほどは面白くありませんでした。私の観点がフェティシズムにあったからです。それにひきかえ、平野著作はビックリものでした。同年5月には書簡で平野翁と交信することが叶い、翁はくびき野における神仏虐待儀礼(雨乞い地蔵虐待)調査について協力を快諾してくださった。
同年5月26日、新宿で、フェティシズム研究上の恩師布村一夫先生(1912-1993年)に会った折、くびき野の雨降り地蔵の虐待儀礼について話すと、それはフェティシズムに間違いないので合わせて南方熊楠と柳田國男を読むように、とアドヴァイスして下さった。こうして、私の石仏フィールドワークは一挙に開始したのでした。まさに、血わき肉おどる思いがしたものです。翌7月6日には、南方熊楠から柳田國男への明治44年の書簡中に「フェティシュ」への言及箇所を読んで確認し、そのくだりをも利用して、7月22日に覚書「法定寺雨降り地蔵信仰の宗教社会史的重要性」を執筆し、翌日それを平野氏に送りました。そうこうしつつ8月に入り、3日に平野翁へこう書き送っています。「故金原省吾博士と平野団三先生のお二人が築き上げて下さいました頸城の古代石仏研究を、私も未熟乍ら継がせて戴きたく精いっぱいの努力を致す所存であります」。
8月5日、浦和市(現さいたま市)の家族および上越市の両親を連れて、妙高山麓の赤倉温泉に行きました。その地は私の好きな岡倉天心ゆかりの地ですが、その赤倉旅行の目的は、妙高村(現妙高市)の関山神社に行き石仏群を調査することでした。家族サービスはその序でだったのです。6日、温泉街のホテルからタクシーに30分ほど乗ると関山神社に着きました。さっそく境内脇の妙高堂や近辺の道路脇に散在する石仏群を写真におさめました。一番大きい「石仏一号」の前では三男の廉(当時小学2年生)をスケールがわりに横にしゃがませて写真を撮りました。その後、付近を通り掛かった村人から石仏について詳しい人を紹介してもらって、神社のすぐ左手にお住まいの笹川清信氏を尋ねました。まったくの偶然でした。私はこうしてあの笹川清信氏に初めてお会いすることになったのです。わがフェティシズム研究はこうして、上越の平野翁に優るとも劣らない最大の協力者を関山に見いだしたのでした。笹川氏に関山石仏群に関する諸々の解説をして戴いた内容は、その場ですべて録音しました。偶然だったのではありますが、何か事前にスケジュールに入っていたように、うまいタイミングで調査が進んだのです。
翌7日には上越市に戻り、上越市立高田図書館で法定寺関係の文献をコピーして調査の予備知識を貯え、8日9日は家族サービスに費やし、郷津の虫生海岸で海水浴をして楽しみました。そしていよいよ10日、平野翁の案内で法定寺石仏群を調査見学する段となったのです。まず、中頸城郡三和村村長の大宮國廣氏、教育長の松縄勇氏に会う。その後、教育委員会の大坪浩樹氏、文化財調査委員で父の小学校時代の同級生の秋山正秀氏、同じく文化財調査委員の山本昭治氏、新潟日報記者の高橋直子さんの同行で、調査を開始しました。むろん平野翁の導きによってであります。法定寺では住職の秦氏の説明を受けて、成果は上々でした。14日の『新潟日報』上越版には調査の記事が掲載されたのでした。
11日、浦和市に戻ると、すぐさまテープおこしにかかりました。そして15日、パンフレット「関山神社・法定寺両石仏群探訪記」を仕上げ、平野翁、笹川氏ほか関係者に発送しました。さらに立正大学文学部史学科の研究誌『史正』第20号にその調査報告文を掲載してもらうことにし、論題を「頸城野のフェティシュ信仰――法定寺石仏群の比較宗教学的分析」としました。わが記念すべき画期的金字塔であります。以後、くびき野でのフィールド調査と文献散策の日々が途切れなく続いていったのです。その過程で1991年12月上旬に『史正』第20号が刊行されたのでした。「頸城野のフェティシュ信仰」掲載の第20号は、現在も上越市立高田図書館に備わっています。
1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。