【コラム】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年(第2回) 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

 

平成の世に石仏が池にぶん投げられる!

翌1992年、この年は春から気分がよく、7月末にはくびき野で第2回目のフィールド調査を実施しました。同月31日、仏教美術史家平野団三翁と、郷土文化の愛好家秋山正秀氏に案内を依頼して浦川原村(現上越市浦川原区)、安塚町(現安塚区)、頸城村(現頸城区)、吉川町(現吉川区)で調査を行いました。この回は頸城村と吉川町の首無し地蔵で収穫がありました。

8月2日には上越市内の滝寺付近に出かけ、滝寺不動や毘沙門ほかを見て回りました。浦和に帰ってからさっそく論文執筆の準備に入り、松村武雄の『日本神話の研究』などを読みつつ8月18-19日に「法定寺石仏群のフェティシュ的性格」を書き上げました。これは10月に、立正大学史学科の『史正』第21号に掲載されることになりました。

また11月には、この年の6月3日で発生から満1年を経過した長崎県島原市の普賢岳噴火にヒントを得て起草した短文「神仏虐待儀礼の発生根拠を問う」を、新潟県民俗学会会誌『高志路』第305号に掲載しました。さらには12月「庚申信仰とフェティシズム」を『日本の石仏』第64号で発表しました。まことに、頸城野のフィールドをバックに神仏虐待儀礼(フェティシズム)の調査・研究で明け暮れした1年でした。

明けて1993年5月に、著作『フェティシズムの信仰圏――神仏虐待のフォークローア』を世界書院から刊行しました。この本の巻頭には父母への感謝の献辞を載せました。「連れ添って半世紀に垂々とするわが両親に、謹んで本書を献ぐ」。そして新著を父母に手渡しで贈ったのでした。また「あとがき」には以下のような文章を書きました。

「ここで少々私事をさしはさむ。実は、昨年フェティシュ儀礼調査に出向いた頸城地方は、私の郷里である。母方は関山の出身で、父方は美守村(現三和区)出身である。父・鉄男は、子どもの頃よく村内の道端などで地蔵を見かけたという。上杉村(現三和区)で育った母・キミエは、関山神社の火祭りなど話に聞いていたという。

また私自身は、小学生の頃たまに三和村内の親戚に出かけ、例えば桑曽根川で泥んこになって水遊びなどしたが、その付近にも“桑曽根の石仏”がくずれ石仏となって現存している。今後少なくとも10年に亘って進めることになろう、私のフェティシズム研究の核心に触れる素材がかくも身近かに存在することになろうとは、想像だにしませんでした。先般の石仏調査においては、種々配慮戴いた三和村村長の大宮國廣氏が、その桑曽根の親戚を介して父の遠縁にあたるとか、同村教育委員会教育長の松縄勇氏が、母方いとこの媒酌人であるとか、調査に同行してくださった同村文化財調査審議委員の秋山正秀氏が父の小学校時代の同級生であるとか、かようなことが初対面の席で一気に判明するなど、とにかくここまでくると世間の狭さにただ驚くばかりである」。

石仏調査関係では7月17日に笹川清信氏の案内で関山神社の火祭りを見学し、18日には平野団三、秋山正秀、吉川繁、吉村博の各氏と金谷石仏群を調査しました。さらに19日、息子の廉を連れて直江津の親鸞上陸の地居多ケ浜に行き、そこで大正14年建立の記念石塔を確認しました。その後8月20日、妻子を連れて長野県須坂市郊外の奇妙山石仏群を調査しました。この時は須坂駅で予約しておいたタクシーに乗り、3時間ほど奇妙山中をフィールドにして歩きまわりました。地元出身の運転手さんだったが、奇妙山の石仏を見るのは初めてと話していた。この年は、そのほか「頸城野の石神・石仏を調査して(1)」を『高志路』第308号に、「薬師信仰とフェティシズム」「続・庚申信仰とフェティシズム」をそれぞれ『日本の石仏』第67号(9月)と第68号(12月)に載せました。

1994年、この年の6月、私の研究にとって生涯に一度という幸運なフィールド調査の機会が訪れました。それは、三和村越柳の溜め池での雨降り地蔵虐待の儀礼挙行です。この年は例年になく全国的に雨不足でした。その傾向は新潟県上越地方でも顕著だったのです。そこで6月12日、ヤラセでなく正真正銘の農耕儀礼として地蔵を溜め池にぶんなげる雨乞いが、越柳近辺の村人総出で行われたのでした。たいへんな民俗儀礼であり、ここ数年頸城で雨降り地蔵を調査してきた者としては、偶然とは思えないほどの幸運でした。

おまけに、その夜遅くから上越地方に久々の降雨があって、直後の地元新聞はそのニュースで持ちきりだったし、東京地方の夕刊にも越柳での雨乞いと降雨のニュースが報じられていました。雨乞いのあと慈雨が降る、その興奮が冷めぬうちに、「平成六年の神仏虐待儀礼」と題する報告文を書き、『日本の石仏』秋号(第71号)に発表しました。これはわが第一級の仕事と今でも文句なく自負しております。

こうして、私の石仏フィールドワークは、研究生活における旬の季節を迎えたのでした。詳しくは、以下の上越市立図書館蔵書に綴ってあります。「平成6年初夏の神仏虐待儀礼」(石塚正英『信仰・儀礼・神仏虐待』世界書院、1995年)

ちなみに、2023年、今年の夏は猛暑・酷暑が連続し農作物に甚大な被害の爪痕を残しました。でも令和5年となれば、頸城野ではいずこでも雨乞いをしませんでした。

石塚正英

1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。

 

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