くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 (第3回) 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

はしか除けの呪い「神さん帰ってくんない!」

前号に記したように、1994年6月、三和村(現上越市三和区)越柳の溜め池での雨降り地蔵虐待の儀礼が挙行され、私はその一部始終をフィールド調査しました。

その前月7日、私は吉川町(現上越市吉川区)の郷土史家吉村博氏といっしょに関山神社の南北両脇に座す岩屋弁天を調査しました。

その翌日、今度は吉村氏の案内で同氏の地元である吉川町の尾神岳とその信仰についてフィールド調査しました。その折、ひょんなことから麻疹(はしか)予防の民間儀礼について説明を受けることになりました。話者は杜氏(酒造り職人)の藤野源吾氏でした。

その儀礼には「さんばいし」という藁細工を使うとのことで、藤野氏(写真上)と吉村氏(写真下)はその図解まで手書きして下さいました。

昔は麻疹よりも疱瘡こそ恐れられていました。それで、疱瘡神撃退の習俗がそのまま麻疹対策にも用いられたようです。方法は、「悪神、敬して避ける」です。

御利益でなく反対に災いしかもたらさない悪神・邪神をも、人々はときに手厚くもてなすことがあります。ただし、心底から歓迎して迎えるというのではないです。邪悪なたちではあれ神は神です。体裁上恭順の意を表しておかないとどんなひどい目にあわされるかわかったものではない。

粗相のないように遇さないと祟りがおきたりバチがあたったりするやもしれぬ。そのようなしたたかな信仰は、世界各地の民間信仰、土着信仰に観察されます。民間信仰の研究者である宮田登氏は疱瘡信仰について、新潟県に採集して以下のように記しています。

「こうした面の疱瘡神の民俗に眼を向けると、たとえば新潟県中頸城郡源村(現吉川区)尾神で、疱瘡にかかった際、藁四、五本でタガを作り、それに笹を二、三葉つけ疱瘡神としておく、疱瘡後七日目に、それを子供の頭の上にかぶせ、祓いといって『疱瘡の神さんご苦労さん』と唱え、母親がお湯をかけるという」(宮田登『近世の流行神』評論社、1976年、99頁)。

じつは、高田市(現上越市)生まれの私が、1954年頃麻疹にかかった折、母は藁づくり「さんばいし」神をつくり、私の頭にのせました。それから笹の葉に水をつけてお祓いをしながらこう言ったのです。

「神さんかえってくんない!」。そのあと母はその藁にお湯をかけ、それを裏手の儀明川に流しました。齢5歳でしたが、私の記憶に残っております。ちょうど、近所の和同保育園に通っていました。伝染病の麻疹に罹患していたわけですから、家でじっとしていなくてはいけません。ところが、毎朝園庭にでかけてはシーソーなどで遊んでいたのです。

母はついに私を家に連れ戻し、裏手を流れる儀明川(写真:1954年の儀明川土手にて、前列左端6歳の筆者と後列右母親)の土手に引っ張っていき、さんばいしに麻疹神を載せ、にぎにぎしく呪いを欠けた後、一気に悪神を追い出そうと頑張ったわけです。母は1924年、高田城下の陀羅尼町(現上越市北本町2丁目あたり)に生まれましたが、上杉村(現三和区)に育ちました。よって、この儀礼はくびき野一帯に継承されてきたとみていいでしょう。

さて、ここからはフィールド調査でなく文献に依拠して解説を続けましょう。明和7(1770)年、越後の塩沢に生まれた随筆家鈴木牧之は、信越国境にまたがる秋山郷に分け入ったときの紀行文を天保2(1831)年に執筆し、これを天保6-7年に他の著述と合わせて『北越雪譜』と題して刊行しました。

その中に、疱瘡神信仰のことが次のように記されています。「さて入口に清水川原といふあり、ここにいたらんとする道の傍らに丸木の柱を建、注連を引きわたし、中央に高札あり、いかなる事ぞと立ちよりみれば、小童のかきたるやうのいろは文字にて『ほふそふあるむらのかたのものはこれよりいれず』としるせり。案内曰く、秋山の人は疱瘡をおそるる事死をおそるるが如し。いかんとなれば、もしほふそふするものあれば我子といへども家に居らせず、山に仮小屋を作り入れておき、喰物をはこびやしなふのみ」(鈴木牧之『北越雪譜』岩波文庫、1988年、96頁)。

文政・天保の時代に秋山郷でそれほど疱瘡が恐れられていたからには、きっとこの地の住民も軟硬両面でする疱瘡神忌避策をとったに違いありません。それでも村に入り来たった疱瘡神に対しては何らかの手を打たねばなりません。鈴木牧之の説明では、「すこし銭あるものは里より山伏をたのみて祈らすもあり」とのことです。

「里からの山伏」とは秋山郷ならではの迎え方であるが、その山伏たちはどんな意図で祈願をしたか-軟か? 硬か? その点は牧之の記録だけからは判断しかねます。時代はずっと降りますが、戦後の1958年から数年間、この秋山郷を含む新潟県頸城地方で庚申信仰の実態調査を行った尾身栄一・大竹信雄両氏の報告書『越後の庚申信仰-上越地方・秋山郷』(庚申懇話会、1966年)によると、新潟県頸城地方(上越地方)には庚申塔が疱瘡神の性格を兼ねている例があります。

かつて牧之が「桃源」と形容した秋山郷は現在も新潟県側と長野県側に分かれていますが、尾身・大竹両氏によると、その「秋山郷には見玉(新潟)の不動堂を除いては、寺院、社掌のいる神社もない」。そのように寺院はないが、民間信仰としての庚申信仰は盛んでした。「秋山郷の長老、屋敷(長野)の山田清蔵翁は、-庚申信仰は家内安全の祈願とともに、息災のお礼でもあって、年取り同様に大事な祝いも兼ねた祭りごとである。そのため米を買ってきてまで、たべたのであろう-とのべていた」(257頁)。

秋山郷では、疱瘡神・庚申信仰はそれほど村民の日常生活と深く結びついていたのでした。

石塚正英

1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。

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【コラム】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年(第2回) 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

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