くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年「第4回 風の三郎を穏やかに撃退する農耕儀礼」 石塚正英(東京電機大学名誉教授)
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くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 (第3回) 石塚正英(東京電機大学名誉教授)
風の三郎を穏やかに撃退する農耕儀礼
すでに幾度か言及している吉川区原之町の吉村博氏(1924-2006年)は、長年にわたり石仏を中心とする民俗文化の調査研究に専念しました。1990年代には仏教美術史の平野団三翁、民俗研究仲間の吉川繁氏、そして私と行動をともにし、また2000年代には新潟県石仏の会上越地区の代表として後進の指導にあたりました。その過程で吉村氏は、尾神岳を中心とするくびき野の民俗フィールドワークで多大な業績を達成しました。とりわけ道路元標に関する分布調査および風の神に関する民俗調査がライフワークとして特記されます。
その吉村氏は、1996年から1999年にかけて数年間、上越市に隣接する市町村で「風の神」「風祭り」に関するフィールド調査を頻繁に行いました。その一例を以下に列記します。
☆松之山地区桐山・黒倉・月池(第一次)。☆大島村下岡・菖蒲東・菖蒲西・牛ケ鼻・室野、安塚町中舟倉・須川(第二次)。☆十日町市川治、川西町野口、中里村小出・清田山・角間・東田尻、津南町大場・前倉・太田新田・上結東、高柳町磯之辺、湯沢町湯沢、塩沢町早川・雲洞新田・大月・熊野・小原・神立・芝原・土樽・添名・松川・谷後・小坂・古野・塩沢、長野県栄村秋山地区(第三次)。(参照:NPO法人頸城野郷土資料室編『風の神信仰フィールド調査 吉村博ドキュメント第1』2009年。)
吉村博氏の仕事を参考にして、以下に「風の三郎」儀礼について説明しましょう。吉村氏は「風の三郎」に関して次のように記述しています。「風の三郎さまの語源理由にはならないが、とにかくこの呼称は、神道にも仏教にも染まらない民間信仰に起因していると考えられる。それが近世になって碑や祠を造るようになって、なにか立派な仏名や神名を用いたいという意識が働き、また修験者や僧侶の介入もあって、現在は「風天明王」「風大神」などの祭神名が刻まれるようになった(写真は安塚町須川上山の石像、吉村撮影)。けれども、「風の三郎」という呼称だけは親しく継承されてきたものではないかと考えられるが、何人とも納得のいかない不可解な神名ではある」(吉村博「東頸城地方の風祭り(風の三郎さま)について」NPO法人頸城野郷土資料室編『くびきのアーカイブ』第6号、2009年、5頁)。
この考察によれば、風の神信仰は、もともとは農耕庶民の営む名もなき儀礼を下敷きにしています。こちらは吹いて欲しくない風(の神)を撃退するか、あるいはせめて村はずれでやり過ごすかするための儀礼です。これは「風の三郎様」の名でよばれていました。けれども、やがて農山村にも人智のおよぶところとなるや、風の神は仏教や神道の神様と習合し崇高な名称を備え、本来はやってきてほしくない暴風(風の三郎様)を撃退する役を演じるようになる。価値転倒です。しかし、もともとの儀礼はそう簡単には廃れません。そこに、風の神・風の三郎の儀礼が不可解な様相を呈する一因があったのです。(写真は、新潟県十日町市川治の風神像、吉村撮影)
そうした不可解な様相を理解する一助として、風の神が大人でなく子どもたちにかかわる事例を、佐久間惇一「風の三郎祭り 新発田市赤谷」から最後に引用します。
「市内滝谷(旧赤谷村滝谷)において、風の三郎のお祭りが子供達によつて行われていることは以前から聞いていたが、昨年夏、祭りの準備をしている現場を訪れて詳しく見聞出来たので報告する。
この祭りは『風の三郎の祭り』といわれていて、新の八月六日オヘドの山で、村の子供達によつて行われる。オヘドの山は、村の案内図には伊勢堂と記されているが、オヘドまたはオセドの山と呼ばれている。ここは東の村頭の杉林の小高い丘で、上から三宝荒神、古峯原様、天満天神、風の三郎、川水上様が祀られているというが、小祠のあるのは三宝荒神、古峯原だけで、あとは常には標となるものは何も見られない。
毎年、祭りの前になると、中学三年生を頭とする村の子供達が、寄りより集つて準備を進める。村をまわつて、太い青竹やヨシをもらつて来て、太い青竹で大人がくぐれるような鳥居や、旗を立てる筒をつくる。また子供達は一人二本ずつの旗と小さなカヤの鳥居を幾つかつくる義務がある。旗は紙で五色のものもあれば白紙のもあるが、それぞれ子供達自身の手によつて神名が墨で書かれる。大人の手を借りないのが、たてまえのようである。
祭りの前日になると宮掃除であつて、子供達は箒や鍬をもつて集まり、木の小祠を安置する場所や、参道の山道を掃除して、そして山の登り口に青竹の鳥居をたて、参道に紙の旗を立てる竹筒を埋める。
木の小祠は丘の中腹の段の粘土質の斜面を僅か削つたところに、向つて左は天下泰平、右は風の三郎様、風の三郎のやや下の右方に川水神の小祠が置かれる。参道をやや下つた山側の大木の根ツコの陰に天満天神が安置される。それぞれの小祠の前には、萱でつくつた鳥居が幾つも飾られ、小祠の前後や、参道には旗が木陰を通る風にはためく。
村人は胡麻やアンコ、クルミ味噌等をつけた団子を重箱につめたりして、賽銭、おあかしをもつて参詣にくる。子供は歓声を上げて迎える。供えられた団子を神前から下げると、年上の子が串にさして皆んなに平等に分けてくれる。御詣りに来ない家へは子供達が迎えに行つたり、オヘドの山は一日中楽しげな喚声に包まれる。
お祭りが終ると、旗や鳥居など祭具の一切を大川(飯豊川)のノマ(渕)のわきの河原で焼く。川水神の旗一本は別に最後に同処で燃やしている。残つた団子はめいめいでわけて家に持ちかえつている。
木の小祠は小学校四年以上の者がくじを引いて、当たつた四人が来年の祭りまで預つて、自家の神棚に飾り大事にお祀りすることとなつている。賽銭はきめられた会計が帳面ともにそのまま保管している。
この祭りはすべて子供達の自治によつて行われている。女の子は仲間に入れられないし、不幸のある子も入らない」(佐久間惇一「風の三郎祭り 新発田市赤谷」『高志路』通巻第199号、1963年、9頁)。
(第5回に続く)
1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。