【第6回-②】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)
【前回】【第6回-①】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)
6-2 米沢林泉寺の〔欄塔(ラントウ)〕
さて、欄塔について少し詳しく説明します。
この石塔の専門家水谷類氏(『廟墓ラントウと現世浄土の思想―中近世移行期の墓制と先祖祭祀』雄山閣、2009年、ほか同氏の著作)によれば、中世の頃、お墓は二個所にありました。
埋め墓(土葬)と詣り墓(位牌や石塔)です。とりあえず埋葬する土葬用の空き地を「埋め墓」といいます。それとは別に身近な祭祀用に「詣り墓」をつくりました。
現在は、埋め墓(火葬)は寺院の境内にあり、位牌は遺族の居住する家の仏壇にあります。水谷氏の研究によれば、葬制は埋め墓から詣り墓へと拡張していったのであり、中世後期に活発化した死霊祭祀という信仰的な動機から、詣り墓(祀り墓)が誕生したのでした。
詣り墓の欄塔には仏像や位牌、板碑、五輪塔などの石塔類、石仏類が納められていました。
私は、2010年11月、山形県米沢市の上杉景勝・直江兼続関連の史跡を見学してきました。私の関心は米沢藩が使用した地元特産高畠石を用いた墓石「マンネントウ(万年塔)」です(画像)。
その様式は欄塔と類似しており、石材は上越特産のくびき野ストーン(大光寺石や中山石、切越石)と同じ凝灰岩です。
黄色や茶色といった色合いも似通っております。きっと、上越の春日山で生活した上杉家の家臣・領民たちは、不慣れな移封先で懐かしい色合いの石材に出逢って愛着を感じたにちがいありません。
米沢の欄塔製法は、まず石塔をくりぬき天と地はあけたままにする。正面に、全体が正方形になるように四角い孔を9ケ所ないし16ケ所に穿つ。その空洞部に墓石や位牌を安置し、天に屋根をおき、地には基盤をすえる。安置する墓石は一つとは限らず、よってこの祠堂は単体の墓石でなく廟墓に区分されます。
石材は、加工しやすい凝灰岩で、米沢地方では「高畑石」といわれます。
(第6回-③に続く)
1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。