【第6回-③】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)
【前回】【第6回-②】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)
6-3 上越と米沢は〔欄塔(ラントウ)〕で結ばれる
上越市の林泉寺裏手には大光寺石でできた謙信関連の石造物があります。
対して、米沢市の林泉寺には兼続の墓石や、家臣たちの、マンネントウ墓石などがあり、石材に限定すればみなくびき野ストーンと瓜二つです。この万年塔は複数の格子穴を特徴とする廟墓で、欄塔の一種です。
故平野団三氏の調査報告(「吉川町・大乗寺の石仏」)によれば、それと同類の石塔が大乗寺址の欄塔(鹿嶋神社)に確認されます(添付写真)。
平野翁によると、格子穴のあるその石祠(鹿嶋神社)は戦国時代のもので「越後上杉文化をよく伝えている様式」です。
吉川区大乗寺の関沢町内会長のお話では、1955年頃に近隣から大乗寺址に移築されたものです。私は、自身で確認したかったので平成2011年6月24日、現場の鹿島神社に出向きました。
2007年の中越沖地震で欄塔は前部欠損し別石(中国産)で補修済みでしたが、写真で確認したところ、元々は地元産(中山石)でした。大乗寺は、景勝の頃、現在の大乗寺址から春日山に移されます。
その後、1598(慶長3)年、豊臣秀吉は景勝を会津に移しました。大乗寺は謙信の廟を守って春日山から会津、米沢に移り、その後上杉神社の宮司となります。私は今回のフィールド調査から、石塔の石質では凝灰岩、様式では欄塔を軸に、くびき野文化の米沢伝播を予測します。
米沢林泉寺の欄塔墓は大乗寺様式の技術継承である可能性を有しております。また、柿崎区岩手の円田神社にも欄塔があります。2011年7月11日に、頸城野郷土資料室メンバー田島慶太氏が調査しました。
ただし、石は地元の黒岩石といいまして、安山岩系統です。 石質こそ凝灰岩ではありませんが、この神社も上杉謙信に深く係わりますので、技術継承の可能性では無視できません。
その欄塔の様式に関して、私は上越市を中心に、福井→上越→米沢の伝播を意識してきました。
ここで余談を披露します。先般、武蔵野の一角である方の葬儀に参列した際、埋め墓の残存だと思われる墓地に行きました。壇払い儀式を済ませ遺骨を埋葬するに当たり、菩提寺から車で10数分かけて共同墓地に向かったのです。そこは扇状地のような小高い丘で、親族代々の墓石・墓標がそろっていました。この地では戦後まで土葬が普通だったと伺いました。そうか、ここは詣り墓でなく埋め墓の跡地だな、と思った次第です。
(第7回に続く)
1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。