【第6回-①】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)<再掲載>

関山神社のラントウ

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初回掲載:2024年1月8日


【前回】【第5回ー③】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

 

6-1. 小野小町の死生観

2024年正月から始まりましたNHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公は平安中期の紫式部ですが、平安前期の歌人に小野小町がいます。彼女は紫式部と対照的な生き方をしたものか、晩年に以下の作品を遺しています。「吾れ死なば 焼くな埋むな野に晒せ 痩せたる犬の腹肥やせ」。

自分が死んだら遺体を野に晒して野犬の餌食に供せよ、と詠んだのです。現代風にいうと、自然生態系の只中にわが身を循環させたかったわけです。

縄文・弥生時代前期の葬制は、死体を野に晒し放置するだけの、およそ葬儀とはいえないものだったようです。

やがて首長層が出現する頃には、柵や小屋の中に一定期間安置して腐らせる段階になります。殯(モガリ)と称します。モガリとは「喪あがり」のことで、喪があけるまで遺体を一定期間葬所に安置し、その後改めて遺骨を弔う葬儀です。

弥生から古墳時代人にかけてモガリ葬は一般的だったのですが、仏教の浸透により火葬に移行していきました。

その発端は646(大化2)年の薄葬令ですが、影響ある境目は持統天皇の葬儀です。叔父にして夫であります天武天皇の葬儀から仏教色が強まり、持統天皇の葬儀から火葬が導入されました。ただし、下層民の間では依然として土葬が続きました。

石造物のフィールド調査を繰り返していますと、神体や墓石を囲ったり入れ込んだりする木造や石造の祠が目に入ります。

そのうち神体を収めたものを「石祠」と称します。屋根が神社のように造られていると一目でわかります。それに対して、墓石や墓標を収めたものは「石祠型墓石」とか「欄塔(ラントウ)」とか称しています。

木造のものは残りにくいですが、正面に丸や四角、日月の穴が開いている場合があるので、その様相から「欄塔」と呼ばれているのです。

こちらはお宮さんの恰好ではありません。けれども、中には「宮仏(みやぼとけ)」といって、鳥居を立てた欄塔もあったりします。

明治以前は神仏混淆でしたから、ちっともおかしくありません。私が知る限りですが、上越地方から峠を越えた飯山地方まで、ラントウが散見されます。

第6回-②に続く)

石塚正英

1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。

 

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