【第7回-①】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

7-1 胸張る狛犬獅子像―朝鮮半島とくびき野の交差点

本シリーズ第5回「くびき野ストーン3兄弟の勢ぞろい」の冒頭に、私はこう記しました。「1990年代を過ぎて2000年代に入ると、私は、神仏虐待(フェティシズム)あるいは価値転倒のケーススタディを求めて、海外にフィールドを拡大していきました。

一つは2000年と2001年の二度にわたって出かけた地中海のマルタ島での巨石神殿と母神信仰の調査です。もう一つは2008年から複数回に及ぶ韓国での古代日韓交流文化調査です」と。今回は、そのうち韓国での調査の一端を紹介します。

私がはじめて韓国を訪れたのは、1996年2月です。当時、実兄が東京新聞ソウル支局長だったので、兄のアパートに宿泊しながら気軽に、李氏朝鮮時代の記念物、宮殿をみてまわりました。

三寒四温のうち、寒の続く3日間、オンドルなどとてもあじわい深かったです。その後、2008年8月に再び韓国を訪れました。24日、大韓航空機で仁川(インチョン)空港へ飛び、そのあと高速バスで5時間くらいかけて慶州(キョンジュ)へ移動。翌25日、石窟庵の新羅大仏(釈迦如来坐像)を見学。そのあと仏国寺境内の多宝塔で新羅時代の獅子像(狛犬の原型、写真)を実見、この2点の訪問はたいへんな収穫となりました。

石窟庵の座像仏は頸城野一帯に散在する埋め込み式石仏を彷彿とさせ、蹲踞(そんきょ)風の獅子像は、これまた頸城野一帯に散在する木彫狛犬像を連想させるものでした。今回は、そのうちの狛犬獅子像について解説します。


朝鮮半島の獅子石像は、一説によりますと、古新羅から統一新羅時代まではオリエントの影響下にありました。例えばエジプトのスフィンクスは、ピラミッドが建造される紀元前3000年頃よりもはるか以前から単体の神(語源はシェプス=姿、アンク=神)として存在しました。

オリエントの獅子信仰は、エジプト古代王権の成立よりも早い時期に西アジアから四方各地に伝播し、その波紋は中国から朝鮮半島にも及んだようです。その結果、新羅では堂々たる獅子が単体の神像として完成したのでしょう。仏国寺の多宝塔に鎮座する1基はその典型です。

守護的な神使・眷属に関するこの学説は、私の長年の研究成果と一致します。例えば、秩父のオオカミ信仰で説明しましょう。秩父の下層農山村民は、古代から近世にかけて神道の神官や真言・天台の高僧が額突くよう求める不可視の神仏・神霊よりも、時として眼前に出没する猛々しい狼・山犬の方をオオカミ(オオいなるカミそれ自体)として崇拝してきました。

周囲すべての生きものを威圧する容貌を有するオオカミは、恐怖の的である分だけまた崇拝の対象でもあったのです。秩父に伊勢神道が入り込むとオオカミは日本武尊という大神の神使と解釈されることにより、以前同様身近かな神の座を確保していくのでした。

さて、朝鮮半島では、やがて高麗時代になると、獅子は多重塔など別の神仏や神殿の下支え役になり下がってしまいました。もはや単体で神の座にあるのではなく、神使・眷属の類に下降してしまったのです。

かつて古代アッシリアにおいては王たちの狩の対象であった獅子ライオンであるから、後代においても蹲踞の姿勢をもって造立されてほしいし、少なからぬ尊厳が保たれてほしい。

けれども朝鮮半島では、次の李氏朝鮮時代には、獅子像それ自体が造られなくなり、装飾され空想化された「ヘチ、ヘテ」と称する獣像(写真はファソンにて)が登場してきます。その推移は、朝鮮半島における蹲踞型獅子像造立の伝統を絶やしてしまう結果となったのです。

(第7回-②に続く)

 

石塚正英

1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。

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