【第7回-②】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

7-2 シルクロード獅子型狛犬

さて、狛犬の歴史ですが、日本の場合、とくに越後・高志はどうだったでしょうか。『日本書紀』持統三年の箇所を読むと、持統天皇は越(こし)の蝦夷(えみし)と南九州の隼人(はやと)に対して仏教による教化政策をとったことがわかります。

その頃の高志に倭の勢力(ヤマト政権)は未だ十分には浸透していなかったのです。蝦夷・隼人のうち後者に対しては筑紫太宰の河内王に命じて公伝仏教の僧を派遣して教化政策を推進しましたが、高志の蝦夷に対しては僧の派遣はしなかった模様です。すでに蝦夷には在地の僧である道信ほかがいたので、仏像一体と仏具を送るにとどめていたのでしょう。

隼人と蝦夷とへの対応の相違は、7世紀後半において高志には自前で僧を育成しうるほどに民間仏教・民間信仰が広く深く浸透していたことを物語っているのです。

その高志では、半面、中央のように急速には文化の展開は見られず、土着と化した古代文化が永続していきました。中央ではすでに技巧を凝らした寄木造りの仏像が当たり前になっても、依然として桂や檜、欅で一木彫りの質素な仏像が造られていきます。

狛犬も同様でした。五十君神社の阿形一体(写真上)、居多神社の一対、剣神社の二対(写真下)の造形をみると、だれしも江戸期に増産される唐獅子石像を思い浮かべることはありません。なお、「コマ」とは必ずしも「高麗」のことでなく、たんに外国=異郷という意味をもつ時代もありました。

そのような語意を意識しつつ頸城野における狛犬のルーツを類型にすると、「シルクロード獅子型」「新羅獅子」ということになろうかと思います。

とりわけ鎌倉期から室町期にかけて、蹲踞の獅子像が狛犬として造られ続けました。くびき野には現在も幾つか残存しています。私がフィールド調査で確認した事例は以下のものです。三和区の五十君神社に阿形一体(鎌倉時代、写真上)、浦川原区の白山神社に一対(鎌倉後期・低姿勢)、五智の居多神社に一対(鎌倉時代後期・かなり風化)、十日町市松代の松苧神社に一対(室町時代・鏡を背に)、糸魚川市宮平の剣神社に二対(室町時代、写真下)、安塚区の安塚神社に一対(室町時代・茶褐色の色彩)。上越市本町一丁目の春日神社に一対(江戸時代初期)。

たしか五十公神社だったと思いますが、案内して戴いた古老がこう語ってくださいました。自分たちが子どものころ、狛犬は投げたり転がしたりする遊び相手だった、と。それから、松苧神社で説明を戴いた古老から、拝殿前に置かれた石の狛犬についても、びっくりするような逸話を披露して戴きました。

第二次世界大戦中に、この神社で武運長久・戦勝祈願をお祈りして出征したにも関わらず敗戦となって帰還した兵隊さんが、石の狛犬を谷底に投げ捨てた、と言うのです。まだ、見つかっていないとも、話されました。

(第7回-③に続く)

石塚正英

1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。

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