【第7回-③】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

7-3 神像の素材となる石や樹木

さて、頸城野に現存する狛犬のうち、鎌倉期のものはおおむね新羅系仏教文化の影響下に誕生した「シルクロード獅子型」のものと推測されます。上越市飯田の日月神社におわす木彫狛犬(写真上、1985年発見)なども、見た目は可愛いのですが、阿像も吽像もきちんと蹲踞の姿勢をとっています。

発見時に調査した仏教美術史家の平野団三翁によると、この阿吽狛犬は高さが23㎝ほどで、南北朝から室町の様式をとどめているとのことです(『上越新聞』1985年6月14日号)。

それに対して、角と宝珠を戴いた安塚神社(写真中)と春日神社(写真下)のものは日本国内で多少なりの変化を遂げた「狛犬唐獅子型」に属します。

とくに春日神社の一対は、重さといい大きさといい、これを限りに木彫狛犬が廃れ、神社の拝殿両脇や参道に石造狛犬となって置かれるようになる直前の最終形態を示しています。

なお、神像の素材となる石とか樹木とかについて一言付言しておきましょう。軽くて持ち運びに適している木彫は屋内で、また堅固で風雪に耐えるのに適している石材は屋外で、という理屈は単純すぎます。

それ以前に、素材それ自身の神性を考えておく必要があるのです。やがて神像に洗練される石や木は、それぞれ掘り出されたり植えられたりする場所そのものからして、信徒固有の聖なる意味づけをなされている場合が多いです(注:石塚正英『信仰・儀礼・神仏虐待』世界書院、1995年、参照)。

それだけに、文化財に認定されても、なるべく原型をとどめておく必要があります。修復する場合でも、腐食防止程度にとどめ、たとえ地味であっても着色・彩色などを施してはならないと思います。

それから、狛犬についてですが、古代には社殿内で祀ったから木彫だった、というのは一面的な理屈です。古代において、樹木が聖なる存在である地域は世界各地にあったのです。木は神の依り代でなく神そのものだったりするのです。

石もまたしかりです。縄文土偶にみられるように、先史古代の日本において、神霊と神体に区別はなされず、石塊や樹木でできた神像と神霊とは不可分離の一体だったのです。

古代にあって、樹木そのものが神なのだから、内刳りして神体を削ることなど、なかなかできなかった。自然をそのままに崇敬するという精神は、とりわけ越後ではながく維持されてきました。

昨年11月に私は、NPO法人頸城野郷土資料室の文化講座で、その精神史を「頸城野の一木彫仏像」と題する講座で解説しました。その点を考慮してお薦めしたのですが、今一度頸城野の自然と社会・歴史のかかわりを俯瞰すると、いっそう興味深い研究テーマがみつかることでしょう。(第8回に続く)

石塚正英

1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。

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