【文明論】第8回「リアリズム」<前編> 山賀博之(ガイナックス元代表取締役社長)
現実と夢の間で起こる人間の文明的活動「恋愛」は古代から現在に至るまで、歌、詩、絵画、彫刻、演劇、小説など、じつに多くの創作物を生み出してきた。人々の心を引きつけて止まないその魅力は、物語として結末が成就するか否かのサスペンス要素だけではないようだ。
恨み、嫉妬、殺人… 本来、危険である恋愛が幸福な結婚と結びつけられたのは、それほど古いことではない。小説や映画、歌謡曲などが醸成した恋愛のイメージは、それを生み出した源流に怖ろしい破滅の事件があったとしても、観客の人生への転用では、かなり穏やかで平和なものとなっている。
こうした恋愛を必須の過程とする結婚観は、現代に生きる多くの男女を強迫的に苦しめていると私は思うのだが、せめてドラマの中だけでも。と、麻薬的な恍惚感に浸れる恋愛劇場の人気は高い。芸能者として観客の需要に背を向ける気は無いが適任者は他にいるだろう。
私の考える恋愛(の物語)は、一言で表せば、確立したアイデンティティの放棄である。社会の中に生きていて、職業なり、階層なり、あらゆるレベルで組み立てられた自分をすべて放り投げて無になってしまうのは、通常では考えられないよほどのことだ。このよほどのことをあえて自発的に行う。それを私は恋愛と呼ぶ。まあ、これでは仏教の「出家」と同義語になってしまうのだが、対極と思われる概念が実は同じことを指しているのはよくある話だ。
恋愛と出家。と言えば平安末期の歌人、西行が思い浮かぶ。彼の波乱の生涯は、その名も『西行物語』等によって辿るしかなく、歴史上の佐藤義清(西行の俗名)が何故何を如何したのかは謎のままだ。出家の理由といわれた皇后、待賢門院とのスキャンダルだって諸説ある。
しかしながら歌作は本人のもの(らしい)。気取らないストレートな作風は日記や随筆のようである。まるで昭和のフォークソング。後鳥羽上皇から生得の歌人とも評されている。長く生きて歌い続けた。二千首以上残るその中で、あまりにも有名なのはこれだろう。
願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ
教科書的解釈では、釈迦の入滅の日に死ねたら… などと仏教色が強い感じなのだが、和歌の言葉選びで「望月」は皇后を意味する。という話を聞いてから、私はこの歌を、漂泊の僧となった後半生の自分をも恋愛に捧げたい。という意味で取るようになった。
専門家はどう言うか分からないが、その方が自分の想う西行のキャラに合っている。やはり800年続く伝説の恋愛は、これぞプロの恋愛というのは、辞世のといわれている歌には最期にこのくらいの執着を見せて欲しいものだ。それでこそ生得の歌人ではないか。
ここに見る「恋愛」は、幸福な結婚と結びつく恋愛とはまったく違う。現世的な、つまり「古典主義」的な利益と離れている。「ゴシック」のように本来の土地へと向かう郷愁も無い。ただ行けるところを漂い、空中に揺れるブランコ。そう、これは「バロック」なのだ。
西行は1118年生まれ。あの、ロマンスを広めたアリエノール・ダキテーヌとは4歳しか離れていない。洋の東西の遠く隔たった場所で、同じような物語が嗜好されていたというのは面白い。もちろんこの世紀はゴシックと後に呼ばれる大聖堂建築ブームの真っ最中である。
西行にしても、「みちのく」という日本におけるゴシックの最大要素を背負っている。だが、田舎の領主(北面の武士で平清盛と同輩だったという)から突然の放浪と見果てぬ夢といったストーリーは、バロック期を代表する小説、セルバンテスの『ドン・キホーテ』と重なる。
ここに類型が見えないだろうか。家の恩恵を捨て、自ら人間の根源へと戻ることにより、文明全体の強度を試しているかのような誇大妄想さえ感じる。私はこの一首が描いた情景に、「常に死を思え」「人生は虚しい」「その日を詰め」といったバロックの三大標語が感じ取れるのだ。
こうした類の恋愛は、確かに人々の日常生活から離れているものの、現代にあっても決して特異なものではない。メジャー映画ならば普通すぎるともいえる。分かりやすい例を上げるならば、少し前の映画だが『レオン』(1994年)はどうだろう。
ニューヨークの裏社会で一流の殺し屋だったレオンは、たまたま助けた少女マチルダに関わることによって市警察全体を敵に回すことになり、遂には彼女の未来のために命を捧げてしまう。しかも、二人の年齢差が、通常そこから起こるであろう性愛の情を隠している。
映画は少女マチルダの視点で進行するが、もう一歩退いた他者の目を通せば、殺し屋がアイデンティティを放棄する物語が見えるはずだ。彼は放浪の騎士であり、悪徳警官という魔物に囚われた姫を救い出す。というロマンスの類型に当てはめることもできる。
もちろん、それはこの映画だけのことではない。今日のメジャーな映画等に現れるヒーロー像には、この類型を800年以上にわたって複製し続けてきた歴史があり、ヨーロッパ文明の欠片として世界に浸透している。(日本の恋愛物語に私小説的な傾向があるのも古い伝統がある)
ここでまた違った恋愛物語を取り上げよう。60年代のアメリカ映画『卒業』だ。冒頭、カリフォルニアの裕福な家庭の一人息子ベンジャミンは、周囲の期待通りに大学生活を終えて帰ってくるが、彼には新たな生活を始める動機となる志も欲望も無く、ただ気だるそうに自宅のプールに浮かんでいる。
社会的アイデンティティに依ろうとせず浮遊する若者を主人公に据えたこの映画は、世紀末には日本でも問題となる自己承認の危機を最初に予感したヒット作だと思う。彼は大人たちが与えてくれる未来のアイデンティティを、無気力に拒絶しながら破壊した。
この物語に騎士は登場しない。囚われの姫もいない。有名なラストの結婚式場からウエディングドレス姿の花嫁をさらって逃げるシーンは、あちこちの恋愛映画で模倣されてきたが、主人公が自発的に行った「よほどのこと」はこの一点のみ。ただし、彼は悪漢の妻にされようとしていたエレーンを救ったのではない。ファミリーが維持しようとする幸福な結婚そのものを破壊したのだ。
殺し屋のレオンと卒業生のベンジャミン。中年のジャン・レノとまだ若いダスティン・ホフマンが演じていた。時代も何もかもが離れていて重ねようのない二人だが、恋愛で身を持ち崩してしまった主人公として思い浮かんだ。共通項は、あの戸惑ったような眼だ。
劇中、二人とも大人側からの導きにより悪事に手を染めている。片方は殺人。もう一方は不倫だ。(架空の世界で罪の軽重は計り難い)そこで出会った異性の中に何かを見つけてしまう。かつては自分にもあった、大人になるには邪魔だとばかりに置き忘れてきた何か。
それこそが、前の単元でも述べた「文明の良心」である。私が商いとして売っている温かな希望を含んだ砂糖水だ。別の角度で見れば、揺れるブランコを「古典主義」の支柱から吊るしている鎖かもしれない。そう、一般的な言葉では理想とか夢などと呼ばれるあれだ。
これらの映画を例にして抽出した情動、置き忘れてきた夢と大人になった自分の現実との間に生じる戸惑い。多少乱暴なのは承知の上で、ここではそれを恋心と定義する。ならば、あの「願わくは…」の歌に作者の戸惑う眼の行く方が読み取れるのではないか。
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山賀博之 (絵・岸田國昭)1962年新潟市生まれ。大阪芸術大学芸術学部を中退し、アニメーション制作の株式会社ガイナックスを設立。同社の代表作である『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(監督・脚本)や『新世紀エヴァンゲリオン』(プロデューサー)をはじめ、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(サンライズ 脚本)、『ピアノの森』第2シリーズ(ガイナ 監督)など多くのアニメ作品に関わる。
現在、還暦。フリーライター。新作「蒼きウル」を鋭意制作中。自称「世界奢ってもらう選手権第一位」「大馬鹿者が好き」。
【過去の連載】
【文明論】第1回「駅裏」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)
【文明論】第2回「みちのく」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)
【文明論】第3回「古典」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)
【文明論】第4回「勝ち負け」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)
【文明論】第5回「バロック」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)