【文明論】第8回「リアリズム」<後編> 山賀博之(ガイナックス元代表取締役社長)

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実在した西行なる人物とその周辺の歴史上の事などは横に置いて、ここに書いたような想像を、ゴシップ記事のごとく好き勝手に巡らせて遊ぶなら、やはり興味の焦点は、平安の若き武士が待賢門院璋子(正真正銘の姫である)の中に何の夢を見つけたのか。になる。

璋子の夫は鳥羽天皇であるが、その祖父である白河法皇と、彼女は幼い頃から関係を持っていたとの噂だ。次代の崇徳天皇は法皇との子だとも言われている。いわゆる訳アリの女性だ。一方、西行(佐藤義清)が所属していた北面の武士は、その白河法皇が組織したイケメン武装グループである。

これだけで充分、ミュージカルでも作れそうな設定(この後、政変が起こり主人公は歌い手に!)だが、このような現実の中で、泥に塗れゆく佐藤くんを救った(壊した?)女性の中の夢を描くならば、それは当時の彼らとは異なる、観客にとっての夢でなければならない。

中学の授業を思い出す。国語の遠藤先生は教壇から、「平安時代と今とで人の考えることは変わるか?」と問うた。私の意見は「変わる」だった。先生の答えは「変わらない」だった。しかし私の意見は半世紀経った今となっても「変わる」のままだ。日本ではそうだと。

「人の考えること」つまりは生きる道を中国から得た文明によって規定するしかない平安時代、この世での夢(理想)は仁・義・忠といったところだろう。重ねてヨーロッパ文明が覆った現代の日本では、それをフランスの三色旗にも表わされる自由・平等・友愛で上書きしている。

どの階層の人も社会を意識するようになった。政治、経済、犯罪、災害、戦争、現代人はニュース等で得る情報から現実を俯瞰して認識する。たとえ素朴な日常は同じであっても立っている目の高さが変われば、歴史上の人物と今の観客が夢を共有することは難しい。

俯瞰する視線を西行は持たない。理由も分からずに押し付けられたものをおとなしく受け取って、理由も分からずに生きてゆく(中島敦『山月記』)だけだ。しかし、春一斉に咲く桜。あるいは散る桜。儚い花びらを月光が透ける様に見る時空を超えた普遍の美しさ。

ここに発生するリスペクトの反射の波紋(前の単元で説明した作用)により、西行と観客それぞれの内面にある異なった「文明の良心」を想起させ、その夢と、日常生活まで緻密に描いた現実の間、戸惑う恋心を物語として共有することは充分に可能なことだと思う。

言うまでもなく、これはヨーロッパ文明の欠片としての西行ミュージカルの作り方であり、映画か、演劇か、現代の劇場で上演する物語を想定してのことだ。その場合、ジャン・レノやダスティン・ホフマン同様、西行役の俳優にも、あの戸惑ったような眼が期待される。

こうした恋愛(の物語)は、当事者が夢の方を選択し、自分を取り巻く現実を破壊してしまう、つまりアイデンティティの放棄によって成就する。観客とすれば、そこへ到達できるかどうかがサスペンスであり、最終的な決断と実行に拍手喝采し「誇り」を得るわけだ。

このような演目に集う人は、自分の現実に「恨み」ありと考えてよいようだ。さらに「人間VS自然の戦い」という観点から捉えてみよう。人間の方はそのままだが、それと対峙する自然を何とするか。多くは、現実。と答えるかもしれない。確かに冒頭からそんなムードを漂わせている。

しかし、その戦いに長尺の物語をリードするほどの強敵は見当らない。主戦場は地上ではなく人間の脳内にあるのだ。そこに戦うべき最も手強い自然が広がっている。心の底では否定している社会になんとか認められようとする自我。「恨み」を呑み込む観客自身だ。

それは何処かの誰かがやっちまった話ではなく、「お前ならどうする?」をストレートに突きつける体験型。ここでいう恋愛物語が、幸福な結婚を前提の恋愛や痛快なアクションを楽しむタイプと、芸能として根本的に違っているのはこのような次第である。

これを映画として制作するために、必然、欠くべからざる指針が現れてくる。リアリズムだ。そう聞くと、多くは情景描写のリアルさばかり思い浮かべるだろう。しかし、何より求められるのは劇中の人間が観客と共有して棄て去るアイデンティティの存在感。

この単元で述べてきたことをイメージしやすく映画史の年表で指し示すなら、70年代のアメリカン・ニューシネマがそうだと思う。その大半がロードムービーと呼ばれるのは、若い制作者が低予算のため、スタジオを飛び出て路上で撮ったところから来ている。

演者にはニューヨークのアクターズ・スタジオ出身の俳優の活躍が目立つ。

その特徴である「メソッド」は遡ればスタニスラフスキーの理論が基になっていて、演者自身の内面的体験と登場人物の設定上の体験を一致させることでリアリズムを達成している。

これを再現しようとは思わない。そんなオマージュも私にはまったく無いが、日本でアニメをいわゆる映画にするためには、最も参考にできるスタイルだと考えるのだ。

 

山賀博之 (絵・岸田國昭)1962年新潟市生まれ。大阪芸術大学芸術学部を中退し、アニメーション制作の株式会社ガイナックスを設立。同社の代表作である『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(監督・脚本)や『新世紀エヴァンゲリオン』(プロデューサー)をはじめ、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(サンライズ 脚本)、『ピアノの森』第2シリーズ(ガイナ 監督)など多くのアニメ作品に関わる。

現在、還暦。フリーライター。新作「蒼きウル」を鋭意制作中。自称「世界奢ってもらう選手権第一位」「大馬鹿者が好き」。

 

【過去の連載】
【文明論】第1回「駅裏」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)

【文明論】第2回「みちのく」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)

【文明論】第3回「古典」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)

【文明論】第4回「勝ち負け」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)

【文明論】第5回「バロック」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)

【文明論】第6回「和魂洋才」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)

【文明論】第7回「蒼きウル」 山賀博之(株式会社ガイナックス元代表取締役社長)

 

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