【文明論】第9回「ペーパームーン」<後編> 山賀博之(ガイナックス元代表取締役社長)再掲載
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初回掲載:2024年3月1日
前回はこちら→ 【文明論】第9回「ペーパームーン」<前編> 山賀博之(ガイナックス元代表取締役社長)
バブル時代前期の東京は、日本のそれ以外の土地には無いであろう不思議な傲慢さが溢れていた。若者も中年も皆、自分がいかに賢くて立派であるか大声で語るのだ。田舎者でアニメ(芸術、芸能系では間違いなく最底辺だった)だなんて、見えるものの中で下には地面しか無かった。(レイ・チャールズ自伝)
この現実の設定が映画にストーリーを与えてくれる。主人公たちは地方出身のアニメーターなのだ。世の中になど称賛されなくたって誰も見たこともないやり方で上昇すればいい。鏡はすでに眼の前の日常を映していた。この映画にいわゆる物語は不要と判断し、鏡のモデル一本で勝負することに決めた。
急ぎやらねばならないのは、膨大な量のイメージを集めること。一般的な120分の映画が映し出す情報の総量はどれくらいか? 計る手段が無いので数字では答えられないが、体感として私は知っている。何故ならこの映画を作ったからだ。設定は地形や植生、街、家、乗り物から服の釦、食べ残しの菓子にまでおよぶ。
こちらの日常と紐づけられた異世界の森羅万象を創出するのだ。多くの人たちと寝食をともにしながら丸二年間。スケジュールぎりぎりでその量はしきい値に達した感があった。私がこの映画制作に与えた初期値と関数はたったそれだけ。果たしてこの空っぽの乾いた器に魂みたいなものは宿るのか?
フランケンシュタインの怪物が悲劇なのは、彼に移植された脳が生前の記憶を失っていたことに尽きる。この世界の神秘は人間にはどうともできぬものであり、文字通り神の手の内にある。そんな寓話に思える。これは、神秘に属する魂とやらを映画に入れるならば天然ものを採ってこいという話だ。
さて、ここで蒸し返したいのは前の単元まで述べてきた「誇り」問題である。これを当時は意識すらしていなかった。理由は、制作陣の多くがこれから世に出ていこうという若者で、そんなものは天然で日常にうようよしていたからだ。それらを網ですくって器に盛れば商品としては一丁上がりではないか。
結局、「魂」問題は不明のまま映画は公開された。世間の評価など知らないが、我々は誰もやったことのない方法で誰も行ったことのない処へ行く体験をしたのだ。卒業課題のペーパームーン効果の実験としてはパーフェクト! と言える。(卒業証書は逃したけど)私は満足して故郷の新潟へ帰った。
興行成績も大ヒットこそしなかったが順調にロングランとなり、最終的にはそこそこ上手く行ったとの知らせを実家の黒電話で受ける。あとはビデオ等の商品化を残すのみで、映画制作の工程としては完全に終了した。この時、やっと学生である身分から開放された実感に浸ることができたと思う。
高校山岳部の友人に誘われるままに、新潟市の繁華街、古町へ出てみた。バブルの波はここまで来ていて賑わうスクランブル交差点は東京と変わらない。マハラジャ(ディスコ)の御立ち台で踊る女子たちをぼんやりと眺めながら、ふと、あの問題が気になり始めた。不明のまま終わった「魂」の件だ。
翌朝から毎日だったと思う。一日中、何もせずに古町十字路のベンチに腰かけて通りを行き交う若者を眺めた。(当時は二十代が歩いていたのだ)「この人たちはアニメなんか観ないだろうな」そう呟くと、急に、ものすごいことに気がついた。自分はあの映画を作った人というより中の人なのでは…
この感覚は説明が難しい。乗馬でいわれる人馬一体が近いかもしれない。自分はこれ以上無く冷静に論理的に作る人だったと思う。しかし、そうやって作っていたのは自分の魂を異世界へ放り込む装置だったわけだ。恐るべしアメリカン・ニューシネマ。恐るべしロードムービー。それが実験の本当の成果だった。
舞台での芸術、芸能を好む人はよく、その一番の魅力をライブ感と言う。そしてそのパフォーマンスを記録して提供する媒体をライブ感の喪失を理由に一段低く評価する。アニメに至っては完全に別ものとして見ているだろう。それはべつに構わないが、私にとってアニメの魅力は一番にそのライブ感である。
百人の人間の数年間という時間が一気に揮発し、客席へ匂ってくる瞬間。これは決して制作に関する知識が起こす感慨などではなく、刀剣や焼き物からも発せられることのある人の身体の匂いだ。もちろん、すべてのアニメ作品から感じ取れるものではない。そのことを意識して作られた一瞬だけがライブなのだ。
まだ若く言葉の乏しかった私は、このライブ感を空っぽの器に入れるべき「魂」と表現していたのだと思う。(根性とも言っていた)でも、どちらにしろおかしな価値観ではないか。魂もライブ感も生きている限り誰もが持っているものだ。観客となる人が何を思ってそこにおカネを払うのか。
人はたとえ少々体格に合わない服を着ても、その重さや肌に当たっている感触をすぐに忘れてしまう。すべての感覚刺激は数秒で消える仕組みになっているからだ。「世界が在るという感触」は刹那の興奮をつなぎ合わせることで継続している。そして、そのこと自体もいつの間にか忘れてしまう。
魂も根性も模式化すれば、すべて発生と消滅を間断なく繰り返す動的モデルになる。なぜか固定している前提をとる自我からすると、世界は常にコストを払い続けなければ存続できない厄介なものだ。そこへ特別予算を投入させる価値を生むのは、世界を自我と同じ場に固定したいという欲望ではないか。
何兆円かけても世界は固定されない。だったら逆を攻めてみよう。自我の固定の方を解くのだ。しかしそうなると、あやふやに揺れる自我ってどうなんだ? って話になる。(この点でアルコールを含む薬物は芸能の商売敵だ)世界との関係は固定したい。故にそもそも自我は固定の前提をとっているのだろう。そういうことから、できるだけ多くの人の自我と世界を含む動的モデルが必要なのである。
いよいよ大詰めだ。これまで私の映画制作に関する考え方を、一般論に寄せて説明してきたが、かつて静的モデルで作られた『王立宇宙軍 オネアミスの翼』と、これから動的モデルで作ろうとしている『蒼きウル』の違いを、具体的なプランを提示することでで明らかにしようと思う。
山賀博之 (絵・岸田國昭)1962年新潟市生まれ。大阪芸術大学芸術学部を中退し、アニメーション制作の株式会社ガイナックスを設立。同社の代表作である『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(監督・脚本)や『新世紀エヴァンゲリオン』(プロデューサー)をはじめ、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(サンライズ 脚本)、『ピアノの森』第2シリーズ(ガイナ 監督)など多くのアニメ作品に関わる。
現在、還暦。フリーライター。新作「蒼きウル」を鋭意制作中。自称「世界奢ってもらう選手権第一位」「大馬鹿者が好き」。
【過去の連載】
【文明論】第1回「駅裏」