【コラム】「日本政府観光局バンコク事務所長の頃 ~タイの大洪水が終わる」元新潟県副知事・中国運輸局長 益田浩(再掲載)
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初回掲載:2024年3月5日
はじめに
3月に入りました。早いですね。広島では「1月はいぬる、2月は逃げる、3月は去る」と言いますが、「いぬる」は「行く」と同義です。
広島市中心部にある名勝・縮景園の梅の見頃は既に終わり、次は桜の開花を待つばかりです。今年の桜の開花は早いと予報されていますね。
ちなみに、縮景園のHPによれば、同園は1620年に築かれた広島藩初代藩主・浅野長晟公の別邸の庭園として築庭されており、最初の作庭は茶人としても有名な家老の上田宗箇とのことです。
私が卒業した修道中学校・高等学校は広島藩の藩校を起源としており、茶道部は上田宗箇流でした。残念ながら、私は茶道部では無く、社会人になってから、東京にある茶道裏千家の道場で稽古し、茶名・紋許の許状をいただきました。両者でお点前にどのような違いがあるのか、気になるところです。
今年1月に開催された広島青年会議所の新年互礼会に出席した際、和装の方が参加されていたため、御挨拶したところ、予想どおり、上田宗箇流の上田宗冏お家元でした。母校の先輩であることも分かり、しばらくお話しをさせていただきました。
高尚な茶道談義を交わしましたと言いたいところですが、実は、昨年大ヒットしたTBS系列のテレビドラマ「VIVANT」についてです。どういう関係があるか、分かりますか?少し長くなりますが、説明してみましょう。
「VIVANT」に登場した「乃木家」訪問
私は業務上、自動車整備事業も所管しており、島根県の一般社団法人・島根県自動車整備振興会の会長は櫻井誠己氏が務められています。
島根県の櫻井家と言えば、そう、たたら製鉄で名を馳せた奥出雲の三大鉄師に数えられます(他は、田部家と絲原家)。昨年、田部家ゆかりのたたらの里の操業現場や田部家土蔵群を訪れる機会があり、また、絲原家の絲原記念館も既に訪問したことから、櫻井家の貴重な資料が展示してある可部屋集成館を見学したいと考えていました。そこで、櫻井会長にお願いしたところ、快く引き受けていただき、御案内までしていただきました。
浅学を恥じますが、可部屋集成館にある展示を観て初めて、櫻井家は大坂の陣で有名な武将・塙団右衛門の末裔であることを知りました。塙団右衛門は、大坂夏の陣の樫井合戦で、上田宗箇に敗れているのです。つながりましたね。
塙団右衛門が討ち死にしたあと、嫡男は母方の姓である櫻井を名乗り、広島藩の福島正則に仕え、福島家の改易の後は、製鉄に必要な木材を求めて、広島の可部を経て、奥出雲に至ったようです。可部屋集成館に隣接する櫻井家住宅は、御当主が居住されている自宅のため、観光客は座敷に上がることはできませんが、私は座敷に上げていただき、奥様に点てていただいた薄茶を頂戴しました。
この座敷が「VIVANT」の乃木家の実家のシーンとして登場します。まさに私が訪問した日の週末に、このシーンが放映されるという、タイムリーな訪問となりました。
なお、御当主の櫻井誠己氏は、かつて全国団体である一般社団法人自動車販売協会連合会の会長も務めていらっしゃいました。その当時、私は国土交通省自動車局自動車情報課長として、お目にかかっています。やはり御縁ですね。
バンコクの大洪水が峠を越える(昨年12月の寄稿の続き)
そろそろ、昨年12月の寄稿の続き、その後、タイの大洪水がどうなったかという話題に戻りたいと思います。
2011年10月20日に泰日協会学校(バンコク日本人学校)が休校となり、同月27日には日本国外務省がバンコクへの「渡航の延期」を勧告したところまで書きました。
この頃には、バンコク市内のスーパーマーケットからミネラルウォーターやインスタント食品、長靴などが姿を消し(輸入品の海外缶ビールは大量に残っていたことを覚えています)、どこそこでミネラルウォーターが売っているとの情報を得ては慌てて買いに走っていました。我が家では、平時は浄水器を通した水道水を使用していましたが、バンコクに洪水が迫ってくると、浄水場に藻が発生したようで、水道から緑がかった水が出てくることには閉口しました。
洪水の初期段階にミネラルウォーターのタンクをかなり買い込んでいたため、結果的に水不足にはなりませんでしたが、先が見通せない中、貴重な水の節約のため、なるべく浄水器を通した水道水を煮沸して使っていました。思い出しても非常にストレスが溜まる生活でした.
しかしタイではこれまでも小規模な増水が繰り返し発生していたため、タイ人は慣れもあり、増水した地域では投網や釣り竿を使って魚を捕ったり、人魚の格好をして泳いだりと、大らかな光景も見ることができました。それでも、私の勤務先のタイ人は「スーパーに水が無い」と、日本人が騒ぎ始めた2週間後くらいから、目に見えて慌てていましたので、これだけ大規模な洪水はやはり大変だったと思います。
バンコク市内の地下鉄は運行していたため、居住エリアから5駅ほど北上して、地下鉄の地上出口から出た瞬間、目にした幹線道路が完全に冠水して一面の川と化していた景色は、今でも鮮明に覚えています。
いかにもタイらしいのですが、バンコクに隣接した地域では、農家などが飼育していたワ二約100匹が増水で逃げ出し、ワニの目撃情報が多発していました。当初、タイ政府は流れて来た丸太の見間違いだなどと否定していましたが、増水に浸けた足が噛まれるなどの被害が多数生じるに至り、ワニ1匹当たり1,000バーツ(当時は約2,500円)の懸賞金を出して捕獲を呼びかけていました。
また、これもタイならではのエピソードですが、洪水で亡くなったタイ人のうち、感電死が少なからずいます。タイの電線がむき出しで、道に垂れ下がり、洪水で電線が水に触れて、近くを通った者が感電死する事故が相次いでいました。怖いです。
このような洪水も、当時の私の肌感覚として、ある日、突然峠を越しました。連日のように、いよいよバンコク中心部も浸水するとの報道があり、家族を日本に帰して単身でバンコクに残っていた私は長期戦を覚悟していました。この頃、コンドミニアムなどの入り口には土嚢が積まれ、民家には玄関の周りに50cm程度の遮水壁が急遽設置されていました。幸いなことに、バンコク北部に新たに設置したビックバックと呼称された2.5トンの巨大な土嚢6,000箇による緊急堤防が功を奏したのか、官民一丸となった排水作業が効いたのか、11月上旬、チャオプラヤ川の河川水位が下がり、同月中旬には、バンコク中心部から約5kmの地点で洪水の南下が止まりました。
バンコクの周辺部は緊急堤防により洪水が停滞して、増水してしまいましたが、周辺部で被害が拡大した分、政治機能を有し、ビスネス街でもあるバンコク中心部は守られました。11月21日には、約10月ぶりに泰日協会学校(バンコク日本人学校)が再開するなど、もう大丈夫だと安堵したことを思い出します。この過程では、国土交通省からも国際緊急援助隊が10台の排水ポンプ車とともに現地に派遣され、排水活動に貢献しています。そして、街中には、これまでタイ人が買い占めていたのであろうゴムボート、長靴などが大量に出回るようになりました。売るタイミングを逃し、儲けるチャンスを無くして悔しがったタイ人も多いでしょうね。
私の使命であるタイからのインバウンドの振興という点では、結果的に、2011年の訪日タイ人数は14万4,962人にとどまり、対前年比で、32.5%マイナスでした。同年の訪日外国人の総数は、対前年比で27.8%のマイナスだったため、東日本大震災に加え、大洪水というタイ固有の事情があったにせよ、非常に残念な結果となりました。今回はここまでとします。来月は日本政府観光局バンコク事務所長時代の総括か、久しぶりにアイドル論にするか、悩んでいます。
益田浩
昭和61年3月私立修道高等学校卒業、平成3年3月東京大学法学部卒業。国家公務員Ⅰ種(法律)合格。平成3年4月運輸省採用。平成9年7月運輸省大臣官房人事課付(英国ケンブリッジ大学留学国際関係論)、平成27年7月自動車局自動車情報課長、28年6月大臣官房参事官(税制担当)などを経て、29年7月新潟県副知事。令和2年7月内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)、内閣官房東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部事務局企画・推進統括官、令和4年6月国土交通省中国運輸局長。