【第8回-①】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

8-1.前曳きオガが高麗時代の半島にあった!

1996年に開始した韓国フィールド調査は、その後も以下のように継続しました。第1回(1996.02.26-28)ソウル市内(昌徳宮・民俗村)、第2回(2008.08.24-28)世界遺産(昌徳宮・徳寿宮・海印寺・仏国寺・石窟庵・水原)、第3回旅行(2013.02.25-28)ソウル市とその近郊、第4回(2015.02.22-25)釜山・慶州、第5回(2016.02.22-27)公州・扶余、第6回(2017.02.20-24)伽耶・光州・木浦。これに続けて済州島と江華島での調査旅行を予定したのですが、2019年末にコロナパンデミックが始まり、現在まで計画倒れに終わっています。

さて、そのうちの第6回で、思わぬ文化財を発見しました。2017年2月20日11時ころ金浦空港到着。その後、ソウル駅から13時過ぎのKTX新幹線に乗車、16時ちかくに釜山到着。地下鉄で梵魚(ポモサ)駅に移動し、梵魚のホテルにチェックインしました。21日の朝、東莱(トンネ)で慶尚南道の金海(伽耶)行きのバスに乗車し、到着後、まず大成洞(テソンドン)古墳を見学しました。続いて国立金海(キムヘ、キメ)博物館に向かいました。ほどなく路上に埋められたプレートを発見してびっくり仰天。

巴型(巴文様)の図柄なのです。このデザインは古代の日本列島(弥生後期~古墳時代)と朝鮮半島南部に共通しています。そのことを実物で確認するためにキムヘ博物館に向かったのです。館内で購入した図録(日本語版)には以下の説明が読まれます。「巴形銅器は、革で作られた盾を装飾した道具として知られている。日本でもこのような遺物が多く出土しており、加耶と日本との活発な交流を証明する遺物である」。

22日早朝、6時20分発の高速バスで光州(クァンジュ)へ向かい、国立光州博物館を見学しました。ここでは特に、パンフレットにあった初期鉄器時代とされる巴文漆器に目が留まりました。あの巴形が銅器でなく漆器で作られているのです。さらに、タクシーで30分ほどの月桂洞(ウォルケドン)古墳に向かいました。そこには日本独自の造形である前方後円墳、韓国の呼び名では長鼓墳(チャンゴブン)が残されているのです。その後再びタクシーで光州松汀(クァンジュソンジョン)駅に移動し、KTX新幹線で木浦(モクホ、モッポ)に向かいました。

23日、午前中は国立海洋文化財研究所(木浦市南農路(龍海洞))の展示館で14世紀の難破交易船を見学しました。難破船の復元展示物は迫力満点でした。木材の生命力は長い時をかけて朽ちていく過程にこそ漲るものだと感慨に耽りつつも、同館で、私は思わぬ展示物を目撃しました。

それは、製材のために考案された高麗時代(10~14世紀)の大きなノコギリ「オガ」です(写真上)。隣の陳列ケースには、浜辺で作業する船大工を模したジオラマがあり、そこでオガをつかう職人の姿がありました(写真下)。オガには2人で使うオガと、1人で挽くオガ(前挽きオガ)があります。そのうち、後者は押さず引くだけなので、日本で考案されたとの説がありました。しかし、その定説は私の眼前で修正を迫られるかもしれないこととなったのです。

 

(第8回-②に続く)

 

石塚正英

1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。

 

【連載コラム くびき野の文化フィールドを歩む】
#7-1 胸張る狛犬獅子像―朝鮮半島とくびき野の交差点

#6-1 小野小町の死生観

#5-1 くびき野ストーン3兄弟の勢ぞろい

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