【第8回-③】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

前回はこちら→ 「8-2.オガ(大鋸)からうかがえる日韓文化交流」

8-3.高田城下大工職人町「おがまち」の今昔

なるほど漢字「大鋸」を見ると「オオガ」と読みたくなるのですが、当初は実物のノコギリと一緒に「オガ」という発音だけが輸入され漢字は添えられていなかったと思います。ただ、「オガ」はとても大きな鋸だったので、日本では「大きな鋸」と呼び、あるいは「大鋸」と短縮されて記述されたのかもしれないです。

この大工道具の呼び名は、町家界隈では文字を介さず言葉を介して後世に伝えられたので、代々「オガ」と呼び習わされてきたといえるでしょう。江戸時代中期の『和漢三才絵図』には「おが」というルビがふってあり、「俗云於賀」との説明が付けられています(写真)。高田藩時代を通じて、大鋸町の職人たちはわが町を「おがまち」と称していたはずです。

ところで、明治5年(学制施行)から初等教育が始まり人々の識字率がいっそう高まりだすと、耳で聞いた「オガ」(ノコギリ)のほかに、目で見た「オオガ」(町名)が認識されるようになりました。たとえば明治40年7月30日付『上越日報』には「おほが」とルビがついています。また、次第に「オガ」というのこぎり自体を目にすることが少なくなっていきました。その過程で、「大鋸」はのこぎりの名称でなく、町名で知られていくこととなったのです。

のこぎりとしての「オガ」が人々の意識から遠のいてゆけば、地図や新聞に文字で記された「大鋸」つまり「オオガ」が居住区の人々になじむところとなったことでしょう。そのような経過をたどって明治後期から大正期になれば、大鋸町の住民は、自らの居住地を「おおがまち」と認識し呼称していくのが自然となったのだと考えられます。

高田市史などに「おおが町」と記載される根拠はここにあったのです。大工の歴史は築いたが文字を読まない人々は「オガ」と称し、文字は読むが大工の歴史に疎い後世の人々は「オオガ」と称するようになったのでしょうね。

ところで、2014年、高田開府400年のおり、これを記念して旧高田城下の雁木通りに辻票が幾つも立てられました。当然にも、旧大鋸町(現仲町6丁目)にも「大鋸町」と書かれた辻票が立てられました。

ただ、「おおがまち」というルビが付されたのです。それはないでしょう。伊達政宗を高田城普請総裁とした高田開府のころを因み偲ぶのであれば、呼び名も高田藩開府当時に合わせるべきです。

この町名は、中世に日本に伝えられた大工道具オガに由来するものです。私は起原を問題にしています。この町名は開府時代にまで遡るのですから、その時代に関係したことを学問的に検証するべきなのです。後世からの推定はなるべく避けて、中世からの呼び名を軸にしよう、ということなのです。


ちなみに、天保14年に再版刊行された「天保改正御江戸大絵図」(写真)には、今の千代田区京橋一丁目にあった「大鋸町」のことを「ヲガ丁」と記してあります。ここには浮世絵師の歌川(安藤)広重の住居がありました。

江戸開府に倣って最初の町名は「オガ」ないし「ヲガ」という読みであったという、そのような考察を行った上で、慶応末から明治元年頃、上越市仲町6丁目すなわち昔の大鋸町に建てられた拙宅「大鋸町ますや」の当代あるじであります私は、建造時以前、江戸初期の呼称に愛着を感じ、屋号を「オガマチますや」と読み習わしております。「ますや」は亡き父が使用していた屋号「桝屋」を継承したものです。(第9回に続く)

 

石塚正英

1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。

 

【連載コラム くびき野の文化フィールドを歩む】
#7-1 胸張る狛犬獅子像―朝鮮半島とくびき野の交差点

#6-1 小野小町の死生観

#5-1 くびき野ストーン3兄弟の勢ぞろい

記事一覧

こんな記事も

 

── にいがた経済新聞アプリ 配信中 ──

にいがた経済新聞は、気になった記事を登録できるお気に入り機能や、速報などの重要な記事を見逃さないプッシュ通知機能がついた専用アプリでもご覧いただけます。 読者の皆様により快適にご利用いただけるよう、今後も随時改善を行っていく予定です。

↓アプリのダウンロードは下のリンクから!↓